永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

雲のながれ

水の実感

先週記事を書いたときには、最近晴ればかりでぜんぜん梅雨らしくないなどと供述していたのにもかかわらず、今は梅雨がつれてくる湿気にふさぎこんでいたりする、ゆうぐれ。雲にかくれてきれいな橙色のそらと、強調するようにかがやくあの景色はいったいいつからみていないのだろうね。ね。

 

水曜日のあさは、天からふる水滴が屋根をたたくおとに目をさまして、とけいをみるとまだ5時すぎだったのを思い出す。くもにおおわれた灰色のそら、アスファルトに染み付く雨水からわきだす、雨のにおい。この雰囲気も、嫌いじゃないのですよとおもってはみるけれど、好きにはなれそうにもないところがまた雨っぽい。

電車のなかはじめじめしていて、側面につく窓ガラスのくもりが湿度のたかさを証明している。思い返せば、先週の水曜日も雨でして、そのまえのまえの水曜日も雨だったようにおもいながら、ながれゆく外の景色をよこめで眺めた。

 

最近は自宅であじさいが満開にさいていて、ついぼんやりみつめてしまう。派手でなく、おとなびた色合いの花びらは、とても奥ゆかしい。

ついこのあいだ知ったのだけれど、あじさいの葉っぱには毒があるそう。しかもその毒の成分がまだわかっていないらしく、なんだか不思議なかんじ。だれかに狙われるような見た目はしていないのに、自分をまもるためなのか毒をもっているという事実が高貴なイメージをわかせる。

 

一部をとって、花瓶にかざった。いまは綺麗なむらさき色の花びらが、間近で見られていささかのしあわせ。しかし、いずれかれてしまう運命なのだとわかっているから、今のきれいさがより貴重なものだとわかるのでしょうね。

梅雨

梅雨なんてなかったのです

僕が住む京都では6月7日に梅雨入りをしているというのに、雨どころかくもりも少ない今日この頃、みなさんいかがおすごしですか。

と思っていたら明日は雨がふるそうでなんとなく安心というか涼しくなるしよいことと思っていたけれど、雨の日にきぶんが晴れるものではないし、移動がめんどうくさくなるので複雑なしんきょうです。

 

ついこの間、10年くらいつかいつづけてきた茶碗がわれてしまい、たいへんへこんでいたし、今も思い出すとかなしい。かなしいかなしい、かなしい。

ものに強く感情移入をしてしまうせいかくなので、こういった突然の別れ(これも別れとおもってしまう)にはたえられることができない、事実。ものに意識はないし考えもないしそもそも生きてなんかないのに、まるでそういったものをもっているようにおもえてきて、へんに同情をかんじてしまいます。

 

その晩、茶碗が割れたといわれ、みにいってみると、みごとにまっぷたつになっていて、そのときはざんねんと思っただけだけれど、その日の夜、まっくらな部屋、ベッドでよこになって眠ろうとしたときにふとそのことを思い出してしまい、茶碗とともに歩んだ10年間を振り返るたび、きれいだったあのころと、割れたあとの惨めなすがたを比べ、とてつもないかなしみが湧いて、きづくと目に食塩水がにじんでいるのだった。

 

そうして目覚めたあさ、その茶碗を割れたかけらに気をつけながら、もういちど洗ってあげた。これがさいごなのだろうとおもうとまた涙がでそうにもなったけど、そういうわけにもいかないし、もうどうにもならないのがわかっていたし。それから乾かして新聞紙にくるんで、ありがとうといって、ふくろにつめて、すててもらった。かたちあるものはいつか壊れるというけれど、壊れてほしくないものもあるんですよとおもって空をみあげると、くものないそらが太陽でまぶしかった。

 

 

 

夢のはなし

とてもありふれたこと

自分が死ぬゆめというのはよくあることで、だいたいは死んでしまったその瞬間、ゆめから起きて、思い返すこともないのだけれど、先日みたゆめはとてもとてもとても特異なものであって。

 

中身というのは、自分は知らないたてものに居て、なにをするでもなくただぼうっとしていて、なんらかの出来事があって撃ってころされる。というところからしか覚えていないのだけれど。そこから場所が変わって、またもや自分は知らない草原にいて、うつぶせのまま寝ころがっている。

問題なのはこれからで、普通に起き上がろうとてのひらを地面につけて、ちからをいれるのだけれど、起き上がった感触はするのに、なぜか目の前に寝ころがった自分の後姿がみえるのであった。それが自分にとっては衝撃で、びっくりして。そうしてふらふらしているうちに、家族と出会って、高校のときの友達に出会うのだけれど、自分のすがたは見えないようで、なんと寂しげな気持ちになったことか。

 

病気のときを体験してからこそ、健康の価値というものがよくわかるというものだけれど、しんでしまったあとには、自分にはもうどうにもできなくて、ただ後悔だけがのこる。生きているときのよろこびというのは、生きているときに実感すべきであって、しにゆく間際に、ああ生きるっていいな、と思うのは、なんだか損をした気分になってしまうものではないのかな、なんて。

そんなゆめから目覚めたあとは、白い太陽のひかりがさしこむベッドのうえで悲しくなって、それとどうじに今という瞬間、めざめた瞬間、あらゆる瞬間のおくそこに、生きているということの価値を、そっておいていこうと決意。

 

初日

外部用に

昼ごろにいろいろはじめ方を調べ、すぐに開設したのはいいものの、

なんでか不思議と照れくさくなってこのまま消してしまおうかと思っていたり。

 

おそらく数年間も文字だけで近況をいいあったり、気持ちを伝えたりして、

顔も見たことがないにとても親近感を感じているひとたちがいるから、

まるで普段接しているひとたちに見せるのと同じような気恥ずかしさを

感じてしまった。のでしょう。

 

思ったより思ったことを文章にするのは、

普段140文字以内でしか短文をつくっていないじぶんには、

難しいことだと身にしみて実感している、日曜の夕暮れ←曇り。

 

 

 

 

 

はじめに

ブログ、というかただのメモ帳みたいな感じ

まえまえからやってみたかったのに、ずっとほったらかしにしたままでした。

でもまあこの度、無事はじめられたことにすごく達成感をかんじていたりもします。

 

つかいかた、なんていうのは全く決めてなくて、

ただ思ったことを気軽にかきためてゆく、後でみかえす。といったそんな感じ。

 

不定期更新なのですが、ゆっくり更新をつづけてゆくことを目標に、

このブログの名前を「永久運動」となづけてみたりもしました。