永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

おおきなものの一部

京都駅の近くのビルの、でかい電光掲示板を、歩いているときにふと目にする、午後4時。おとといは33℃で、昨日は35℃でして、やっぱり地球温暖化のそれをじんわりかんじてしまったりして。すこし斜めにかたむいた太陽がはっする紫外線とやらをうでに生身に受け、いささかのひりひり感がどこからか湧いた。

しかし地球というのはとても巨大で、壮大で、広大で、とてつもなくでかいもので、地球の中心部なんていうのはものすごい高い温度をたもっていて、その熱エネルギーのためにわれわれがすむこの星がまわっているのだそうで。そのおおきなおおきな球体の表面温度が2,3℃あがる、なんていうのはまあ自然なことなのでは?なんていうことをどこかで聞いて、せやねえと納得することもしたのだけれど、それってじぶんたち、まあつまりは人間だけれども、それが起こした環境破壊の責任を、ほかのものになすりつけているだけなのでは?なんておもったりもした。

 

 

みえない世界、

いわゆる他人的別世界

毎日通うばしょに、あ、あのひとまたいる、あ、あのひとはじめて見た、というふうに思ってはみるけれど、もしかしたらむこうのひとも共通してあ、あのひといつもいるひとだ、とか、あのひとはじめてみるな、とそんなふうにおもうのだろうか。

わたし今日の服さらぴんなのよ、とか今日の服近所のひとからもらったお古ですねん、なんていうのはわからないけれど、みんな一緒に服を着てつくえで勉強してる傍ら、エアコンが音も無く冷風をふきだしている、午後2時。

 

ただそんなふうに思ってはみるけれど、今同じ空間に存在しているひとたちにも、それと同じ数の朝があったわけよ。よいか悪いかはさておきね、それなりのすごし方があったわけよ、それからそれと同じ数の夜もあるわけよ。それはみんなには見えないから、他人という存在、見えないから、他人的別世界。

訪れというの

夏である、季節はかわったのよ

先日今年ではじめて、人生でまだ二回目なのだけれど、部屋に忌み嫌われし害虫が出現し、久々に大声をだしてしまった。逃げてる隙に逃走を図られ、結局決着がついたのは0時前だった、切実にやめてほしい。けどこんなこと、伝わることはないので、おそらく人類と生物としては大先輩のかれらとは、いつまでも戦い続けることなのだろうね。

 

考えてみると、人類が勝手にここからここはわたしの陣地、ここからむこうまではあなたの陣地、というふうに、ありもしない境界をひいたのであって、それはおたがいににんしきしてこそ成り立つものであるから、人間いがいのせいぶつには当然受け入れられないものなのであることは誰にだってわかることなのであるのね。ですからその虫たちには自分がどこにいようと、ほんとに虫たちの勝手なのよねえ。

 

GKBRはもともとは、名前はわすれたけれど、今ほど忌み、嫌われてなかったという話を聞いたことがあります。かれらが出現するところは、食べ物がいっぱいあって、湿気がおおくて、いかにも住みやすそうな場所ですから、かれらが出現したのをみた当時のひとびとは、ああうちって裕福なんだな、というふうに考える時代もあったらしい。幸せなことである。

 

そんなかれらが嫌われはじめたのは、だんだん西洋文化が浸透し、純粋な日本ではなくなってきてからだそう。どんな変革があったのかは知らないけれど、わずか数十年でこんなにも日本の多くのひとがかれらを嫌いになってしまったそうで。そうかんがえるとかわいそうなことですわね。ほほほ。別にいいんですけどね。

やってきた、熱がよ

冷たさの価値があがる

昨日の昼から夜ねるまえまで、左腕のひじの下側、うまく説明はできんが、そんな部分、ゆびでぐっと押したらすこしだけぐびびっと内側にへこむようなあの部分がやたら痛みだし、無視できるような痛みではなかったので、なんだか心配になってきていた。これ、あかん病気とかなんちゃうん、とか腕切り落とさんならんかもなんて考えがどこからともなくわいてでた、昨夜午前0時。

 

もし腕を失うようなことがあったら、こうやってパソコンで文字をぱしぱしうちこむこともできなくなるし、文章はかけなくなるしで、日常生活なんてできたものではなくなるでしょうね。いまのこの生活がほとんどすべてこの片方の腕1本にささえられてるのかと思うと、いやはや片腕の重要性を気づかされたきがしてます。幸いなことに腕というものは2本あるのだけれど、正確にコントロールできるのは片方のみなので、にんげんといふものはもろい存在ですね、まったくね。

 

今朝は温度が暑く、梅雨も明らかな終わりをみせていて、まあよかったのだけれど、盆地にすむわれわれは、まだ夏の湿気になやまされそうであります、夏。この暑さもそうではあるけれど、ようやく聞きましたよ、セミの声。夏の到来。熱の到来でありましょう。そうでしょう。恒温動物というものはやっぱり誰しも暑くなったらつめたいものをもとめるでしょうし、寒くなったらあついものをもとめるでしょうから、むわんとかほる夏のにほひからは、やっぱりみんな冷たさをもとめるものでしょう。冷たさの価値があがる。

循環

降水と寂しさの関係とは

朝起きて台風、朝食をとって台風、電車に乗って台風、授業をうけて台風、エレベーターで台風、帰宅して台風、テレビで台風、寝る前にも台風。きっと今の最新のトレンドは台風なのでしょう、この時期にしか注目されない熱帯低気圧には、自身のつよいかぜで地面をむちゃくちゃにすることや、地上のものをほじくりかえすことなんて、なおさらそれを迷惑におもっているひとたちのことなんて、知りはしないのだから、しかたない。

 

夜ねるまえにふとおもう、孤独感とでもいうのでしょうか、ひとりでいるかんじ。形容しづらいけどそんな、感覚。寝ているにんげんというのはただ息をするだけのいわばいちばん無防備な状態といってもさしつかえはないでしょう、そんな状態をだれかと共有するというのは、信頼の具現化、でしょうね、いいね。すてきやんねえ。

まえに横で誰かが寝息をたてていたことなんて、あったかしら、いつかしらと思い返してみると、最新は高校生のときだった。当時仲のよかったひとたちと一晩、二晩をともにし、寝る前はたあいもないはなしに花をさかせた。わたしはみんなより一足はやくねてしまったけれど、それだけあなたたちのことを信頼していたのね、とあとになってそう気づく。みんな元気にしてるかな、どうかな。

 

 

 

雲のながれ

水の実感

先週記事を書いたときには、最近晴ればかりでぜんぜん梅雨らしくないなどと供述していたのにもかかわらず、今は梅雨がつれてくる湿気にふさぎこんでいたりする、ゆうぐれ。雲にかくれてきれいな橙色のそらと、強調するようにかがやくあの景色はいったいいつからみていないのだろうね。ね。

 

水曜日のあさは、天からふる水滴が屋根をたたくおとに目をさまして、とけいをみるとまだ5時すぎだったのを思い出す。くもにおおわれた灰色のそら、アスファルトに染み付く雨水からわきだす、雨のにおい。この雰囲気も、嫌いじゃないのですよとおもってはみるけれど、好きにはなれそうにもないところがまた雨っぽい。

電車のなかはじめじめしていて、側面につく窓ガラスのくもりが湿度のたかさを証明している。思い返せば、先週の水曜日も雨でして、そのまえのまえの水曜日も雨だったようにおもいながら、ながれゆく外の景色をよこめで眺めた。

 

最近は自宅であじさいが満開にさいていて、ついぼんやりみつめてしまう。派手でなく、おとなびた色合いの花びらは、とても奥ゆかしい。

ついこのあいだ知ったのだけれど、あじさいの葉っぱには毒があるそう。しかもその毒の成分がまだわかっていないらしく、なんだか不思議なかんじ。だれかに狙われるような見た目はしていないのに、自分をまもるためなのか毒をもっているという事実が高貴なイメージをわかせる。

 

一部をとって、花瓶にかざった。いまは綺麗なむらさき色の花びらが、間近で見られていささかのしあわせ。しかし、いずれかれてしまう運命なのだとわかっているから、今のきれいさがより貴重なものだとわかるのでしょうね。

梅雨

梅雨なんてなかったのです

僕が住む京都では6月7日に梅雨入りをしているというのに、雨どころかくもりも少ない今日この頃、みなさんいかがおすごしですか。

と思っていたら明日は雨がふるそうでなんとなく安心というか涼しくなるしよいことと思っていたけれど、雨の日にきぶんが晴れるものではないし、移動がめんどうくさくなるので複雑なしんきょうです。

 

ついこの間、10年くらいつかいつづけてきた茶碗がわれてしまい、たいへんへこんでいたし、今も思い出すとかなしい。かなしいかなしい、かなしい。

ものに強く感情移入をしてしまうせいかくなので、こういった突然の別れ(これも別れとおもってしまう)にはたえられることができない、事実。ものに意識はないし考えもないしそもそも生きてなんかないのに、まるでそういったものをもっているようにおもえてきて、へんに同情をかんじてしまいます。

 

その晩、茶碗が割れたといわれ、みにいってみると、みごとにまっぷたつになっていて、そのときはざんねんと思っただけだけれど、その日の夜、まっくらな部屋、ベッドでよこになって眠ろうとしたときにふとそのことを思い出してしまい、茶碗とともに歩んだ10年間を振り返るたび、きれいだったあのころと、割れたあとの惨めなすがたを比べ、とてつもないかなしみが湧いて、きづくと目に食塩水がにじんでいるのだった。

 

そうして目覚めたあさ、その茶碗を割れたかけらに気をつけながら、もういちど洗ってあげた。これがさいごなのだろうとおもうとまた涙がでそうにもなったけど、そういうわけにもいかないし、もうどうにもならないのがわかっていたし。それから乾かして新聞紙にくるんで、ありがとうといって、ふくろにつめて、すててもらった。かたちあるものはいつか壊れるというけれど、壊れてほしくないものもあるんですよとおもって空をみあげると、くものないそらが太陽でまぶしかった。