永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

雪と京都

このブログはなにかおもったことを後の自分に鮮やかにつたえるためのものであって、つまりは自分が何かものを考えない限りかきこむことはないのであるので、更新がないということは何も考えていないということになる。

というのも実際正解で、最近ほんとうになにかを思考するという機会がないのであります。(学問以外で)なにかものを考えると、どこか一点に視点が集中し、そのままその一転をみたままで、すうっと考えていたことが抜けてゆく。そのままなにを考えていたのかもう思い出せなくなってしまうというのを繰り返す年末。

 

今日は今年度ではじめて雪が降りました。積もるというのではないけれど久しぶりにみた雪というのはどこか儚げでいみじう趣がある。ゆっくり空から降ってきて、じめんにつくと同時に水になって溶ける。ただの水の状態変化なのに、どこかで生命を思い浮かばせて悲しい気持ちにさせる。

去年は忘れもしませんが1月13,14日と雪が降り、なんとか電車は動いてくれたのに感謝したのを思い出します。あれからほぼ一年が経とうとしていますがあのときあの瞬間、一年後に自分がなにをやってるかなんて想像もしなかった。いはんや今の自分もそうで、半年後どうなっているかなんてわかるはずもありますまい。何が起こるかわからないから人生という一年を、四季を繰り返せるんでしょうな。

 

前読んだ漢文に張来というひとの海棠にかんする文をよんだのだけれど、言ってることはつまり、未来になにが起こるかはわからない、ということです。時が経っても常に人間は未来がわからないことに言及している、とおもうと、どこか時を越えたなにかを感じたような気がして、不思議な気分になりました。

一寸先は闇といいますが闇じゃない場合もござる、一寸先が光かも知れぬ。もしくは豆球なのかも知れぬ。一寸先は豆球。それもおもしろい気がした。

 

 

こがらし

2週間ほどまえから決まって朝に腹が痛み出し、それが一日中続くという苦難のときをすごしてそろそろ慣れようかとしているときに花粉症かなにか知らない何かが鼻水、喉痛をひきおこし、外にでようとする意欲をかき消してしまった。つまりはひとりでなにかを考えることを避けるための手立てをうしなってしまったのだ。

 

なにかが燃えるにおいがする空気をすいながら、ひとりで家の中ですごした。どうやって死ねば一番楽に死ねるかというテーマだった。数時間かけて考えた末、結論は老衰だったのだけれど、よく考えたら僕ははじめから死ぬ気はなかったのだった。なにひとつ進歩しなかった。時間を無駄にしてしまったけれど、いい時間の消費にはなった。

 

ひとりでものを考えていると、結局じぶんひとりぶんの考え方しかできない、という言葉を本でよんで、確かにそのとうりである。じぶんひとりぶんの考え方というのは全く価値をもたない。というのも僕はじぶんひとりで生活しているわけではないからだ。

パートナーをつくるべきかも知れない、とびきり親しいパートナーをもつべきだと思う。じぶんの精神が安定するし、精神そのものも強くなれる。あらゆる場面に対応できるし、ふたりぶんの複雑な考え方がもてる。でもそのパートナーのつくりかたをもう忘れてしまったようにおもう。今居る自分状況がそうさせるのだ。今居る僕ひとりぶんの、何の価値ももたない考え方がそうさせるのだ。

不安定さによるものなど

なんとも形容しづらい感情や自発的な想像なんかがじぶんをとりまいて、じぶんのことなのにじぶんが今なにがしたいのかわからない、じぶんが今どうしたらいいのかわからないような、そんな今現在0時をまわったところである。

なるべく負荷をかけないように、無理をしないように生きようとつとめてはいるのだが、このように感じてしまうのはおそらくじぶん一人の問題ではないからかもしれません。どこかで他のものを巻き込んでいるのか巻き込まずにはいられないのか、つまりはその問題を考えずにはいられないということだけれど、考えようともしていないのにふと考えてしまうことが、自身にどこかしら奇妙な影響をあたえているようであります。

 

さてその対象をいうのはものすごく平らにいうと概念でしかなく、決して質量のあるものとは自身でも確信できていないものであるから、どうしようもなくなっていて、じぶんではわかっているし明確に対象の確定はできているけれど、それの現状をすんなりと受け入れ、つながりを堅牢にし、溶け込ませる決断をつけれずにおる。はてつながりとはなんなのか、実にその定義はその相手を人に限定したことではないにしても、不安定であり、この場合だと適切でない表現になる。

 

というのも、そのことにかんして実際に質量のある体験や鮮明な記憶というのを保持している手前、言ってみれば実にこわれやすい、つながりのよわいそれを求めたところで、なんになるのでしょうか。むだにはならないでしょうか。非効率なのでしょうか。結局はそれもなんてことない時間となってどこかに埋まるのでしょうな。

冬のきざし

夏がおわってまた忙しいまいにちがはじまってからはや3週間が過ぎさろうとしていくなか、じぶんはそれをただ遠くからみているような感覚で時のながれをじっかんしておると、そんなことしているばあいではないと、身近な数字に気づかされる。カレンダーを見る機会はないけど先日手帳をふとみたときに自発的に脳にうかんできたので、深層心理ではずっとおもっていたのかも知れぬ。ただ自我がそれから逃げていたのかもしれぬ。

 

時がたつのははやいもので、もはやひとりにもなれつつあって、年齢相応に今の自分の境遇を具体的に簡素に表現できる言葉を見つけました。「独身」。

高校時代の友人と話すことがたてつづけにあったので、高校を卒業してからの友たちは、いったいどういう今をすごしているのかということをたづねてみると、みんな別れているそうで、みんな結合を切ってイオン状態にあるそうで、いはんや自分もそうで、やっぱり環境がかえてしまうものは大きいと身をもって体感したのであった、9月の中盤、近鉄電車内。

 

楽しい思い出を創造するという目的で、付き合いたい願望は胸に秘めておるが、なにもそれは性欲とはかなり隔離されたものであるのはまぎれもない事実なのであることにじぶんでも信じられぬ。というのも、ただそのときにまいにちが楽しくなって、あとであああのとき楽しかったな、とおもえる思い出が欲しいからなのであり、それは今のじぶんの境遇にまったく満足していないことを露呈しているだけではあるのだけれども、つまりは誰かと付き合うというのはまさにそういうことなのであろうな、すべてはその境遇にあるじぶんとあいての一瞬一瞬なのであろうな、そういうのをもとめることが正解で、そうでないものを否定する気はさらさらないのやけれど。

 

 

激動の9月

歩きながら、地面に生息するカラフルで謙虚でひかえめなタイルをみながら、今、じぶんがなにを考えているのかをさまざまに模索したけっか、得られたのは空白の時間。夜はさむいぐらいに涼しいのに、日中はたいようのせいで長袖のパーカーではやや暑い。けど半そでになると室内のクーラーで寒い。なぜここまでじぶんはじぶんの体温さえ調節できないのか、ということを考えるけっかにはなったのだけれど。それも数分で思考のかたすみで消えてなくなって、また考えることをしなくなった。

 

どこか別の場所、いわゆる知っているひとがひとりもいなくて、人間関係やらじぶんをとりまくある程度の環境を都合よく一新した状態のことだけれど、そこに行きたいとおもうことがよくあって、まあそれはそれで考えというか机上の空論としてはよくできた題材であるが、妄想がはかどるものであるが、果たしてその考えるという行為がじぶんがいまいる現実からの一種の逃げでないかというふうに考える。や、なにをもとめてそこに行くかでいろいろと物事は変わってゆくのだろうけど、新しいところへ移ったところで、結局じぶんのことであるから、また同じ環境をつくりだしてしまうのではないかということがあたまによぎって仕方ない。その環境にすむという極めて限られた場合を前提としているのだけれど、これこそ机上の空論。現実的時間の無駄。

 

さて、一週間が驚くほどはやくすぎて、気温もすごいいきおいで下がっているのだけれど、じぶんとしてはたいした変わりも無く過ごしておって、変わったことといえば最近ふとんを一枚追加したぐらいです。つまらん報告やけれどあとで見返すと笑えるのではありませんか?笑えることありませんか、そうですか。

 

 

うつりめ

おもうことなんかなくて、考えることなんかなくて、ただ流されてゆくままに毎日をすごして、ガラス越しに太陽のうきしずみなんかをながめていたら、夏がおわってしまっていた。電車にのっても、室内にはいっても、半そででは逆にさむいくらい冷房がついていて、夜になると日が沈んでいるために日光をおがむことができなくて、じぶんじしんを生物として考慮するとこれは圧倒的に変なこと。四季を無視してすごすことというのがからだに与える影響とはなんなのか、そんなことも考えようとしたのだけれど、どうしても考えることができなかった。や、というよりすべてを放棄していたというのがただしいことかもしれんが実際どうでもいいことなのであったので、これもながす。すてる。

 

いつのまにか涼しさがやってきていて、窓をあけて紺色のひかりがただよう夜の外をながめた。ずっとないていたセミがいつのまにか、名前もわからん鈴虫かなんかにかわっていて、その変異の瞬間がおもいだせない自分がいることが泣けてくる。頭痛もする。これはあとから調べたら肩こりやストレスからくる神経痛であったのだけれど、じぶんがじぶんとして積極的に時間を消費しているかんじがしないのよ、最近。よくないほんとよくない。

 

文章を書くのもきがつくとずいぶんひさしぶりで、パソコンのキーボードをぱしぱしうてなくなっててやはりここにも時間のながれをかんじる。受動的に時間をすごしすぎているため、時間に過ごされているというのが適切なひょうげんなのかもしれん。じぶんで動きをつくらねばねえ、とわかってはいるのだけれども。また秋はながれてゆくだけ。

 

 

残暑

前回文章を残してからずいぶんじかんが経ったのは事実、そのあいだに体重がおおはばに増えたとおもいきや、高校時代より2キロ増えただけだった。おそらく知らぬまに筋肉が脂肪への変化がおこっていたのでしょう、じぶんのことなのにまったく気がつかぬ、体たらく。

 

先日ふるさとにかえったとき、実家でなくじぶんの生まれた地、にかえったとき、その地域のなんとなく寂れた、時代に過ぎ去られた、おいていかれた建物や、道や、ベンチ、かたむいた電信柱なんかを横目で見て、やまで区切られたゆうぐれのそらと、夕日からしみだすオレンジ色の光のグラデーションをからだで感じて、なんともいわれぬ、形容しきれぬ関心をいだいた。

 

高校生まっさかりの17歳、読書をはじめてみようとして読み始めた、村上春樹、「海辺のカフカ」。はじめの主人公が高松まで夜行バスで移動するところがすきであり、夜中にわくわくしながら文章を目でおっていた記憶。どうやらじぶんの、抽象的で圧倒的な、なんていうの、ひとの力を超えた力、にたいする価値観というのか、それがこの小説で形成されたきがした。これについてはいろいろ考えたりしているので、時間があるときに思考の整理として文章にまとめていたいとおもっていたり、そりゃ自分のためによ。

 

いまはただただ、見慣れた地域から離れ、みたことない、かいだことのないにおいのする、辺鄙なところに行ってみたいとおもうばかりである。