永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

初春

19年間というのは長いようで短い。ただ20回四季を経験しただけなのだから。でもそんな短くて語りつくせる程度の人生でも、最近はとくにいろいろおもいだしたりもしています。

外をあるくことが最近多かったので、ふだんつかわない駅でのにおいとか知らないひとの香水とか、電車が鉄橋をとおるときの音とかバスの扉の開閉音とか、そういった様々な外部の影響をうけて、過去に経験した記憶というものがしぜんと頭の中にわいてきて、高校時代のほんと最近のこととか小学校のときの淡い思い出なんかを追憶してしまいます。いまもなんだか遠いようで近い2年前の年末のこととかおもいだしたりして、横目で窓をながめ、部屋の温度差でガラスにまとわりつく水滴なんかをてにとったりして。

 

過去の記憶というのはもう起こってしまったことであるがゆえに無限のちからをもつ。過去のことがらを建前にじぶんをかざってみたりできるし過去のことがらでたのしんだりもできる、がやっていることはすなわち現在からの逃避。変わらない現在と変えようとおもえばいくらでも変えれる過去。それをひとたび記憶として認識してしまうと、じぶんが体験したものだと思うあまり改ざんしたことを忘れてしまい、じぶんをいくらでも美化できる。無限のちからというのはこういうことだ。昔のことをじぶんのステータスとして著しくじぶんを飾ることで、他人からは見栄えがよくみえるようになる。

でもひとたびすこし退いてみると、そういう過去のことがら(記憶としてもいい)でじぶんを飾ることはとてもむなしいことに気づき、今現在のじぶんと比較すると、いかにじぶんが価値の無い人間であるかわかるというもの。飾れば飾るほど今のじぶんの虚しさが顕著にあらわれる。そのことに気づくと過去をことばにすることが意味するのをじぶんで納得して、後悔したりもした。(これは過去のことがらでなく今の考え)

 

新年があけて一ヶ月経つけれど年末とかわらないじぶんに、とくに問題意識をもっておらん。一日のスケジュールもかわらん。かわったのは髪のながさぐらい。浪人生というのはこんなものかと、帰り道夜空をみあげると、真っ暗でなくどこか明るみをふくんでいる星空に、どこか悲しさを感じた。夜はない現代。2018。