永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

4月

快速電車の窓から外を見ていた午後5時、天気はよく夕日がきれいやった。電車は高速で大阪を走りぬけるので、めまぐるしく風景は移り変わるのだけれど、夕日のだす光が、団地の壁や、ひろいグラウンドや、大きな公園を照らして、それらがぼんやりと薄いオレンジにそまって、どこか古くささ、昔っぽさを思いおこさせてきて、自然としんみりとしてしまった。

 

ひとは自分が体験したもののうち、失われたものにかんしては、現存するものより、より深くの想像、ついで情をかんじるものやと思う。それが存在していない現実を身をもって知りながら、それが存在していたという事実を受け入れたとき、そのギャップやらその差などを強くかんじてしまい、そしてそれは失われたものの年度が古ければ古いほど、その悲しみは大きいんやという結論をつけておくと、僕が今日感じた古くさい町並みに何故か深い感動さえ感じてしまうという事実にも説明がつく。

 

そう考えると僕が今日感じた感動なりしんみりさ、なりは結局ひとつの一例に過ぎない。じゃあそれは何の一例か、というと時間であって、僕は一秒一秒を過去にしていっているという事実を無視することはできないのや。それがどんな内容であれ、「若さ」を少しずつではあるが無くしていっている今。数十年後の自分がこの文を読んだとき、どうおもうのか。あるいはどうも思わないのかもしれない。