永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

雨の日

4月は後半の雨の日の今日。駅前のベンチに座りながら、雨がやむのを待っていて、しとしと降る雨粒がスニーカーのつま先を濡らす。午後3時の京都は最近の連日の暑さを忘れさせるように涼しい。空から絶え間なく降り続ける白い細かな線をぼんやり見つめながら、ずっとこんな日が続けばよいのにな~と思ったりした。

 

先日の英語の授業で、英語など多くの外国語は積極的言語とよばれるように、相手になにか聞かれたときも言うときも、1から10まですべてを伝えないといけなくて、もし相手がその話についてなにかわからないことがあったら、それは自分が伝えきれてなかったせいなのだ、と考える言語らしい。一方日本語はというと、受動的言語とよばれるように、1伝えると、聞き手側がその1から10までを自分で察して判断しなければならない言語で、聞き手になにかわからないことがあったなら、それは聞き手がちゃんと察してやれていなかった、と考える言語なのだそう。確かにこれは古文で顕著で、主語が抜けまくってるし、文を読み解くのに必要な、最小限の情報しか書かれていないことからもよくわかる。

 

さて、じゃあ「好き」ってなんやろう、って考えたとき、定義的な意味を考えるならば、あるものごとに好意をしめすこと、なんかになるのだと思うけれど、日本語を使う我々に、「好き」を伝えたとき、相手はいったいどこまで意味を汲みとるんやろうか??単純な「好き」ということばが、付き合うとか恋人になるだとか、そのようなもっと先のことまで想定してしまうんやないやろうか。ただ好きなだけ、ただずっと想ってるだけ、ただ自分にとって大切な人であるだけ、という小さくて大きな、やわらかくて壊れやすい気持ちをあらわすのに、「好き」って伝えるのではあまりにも意味を持ちすぎて、限定しすぎて、強すぎて、そして曖昧すぎる。

 

この「好き」って気持ちをどうあらわすかという適切な表現をまだ知らないから、ゆっくりじっくりのんびりぼちぼち考えている。でも連日の暑さを忘れさせるような涼しい日っていうのがいつまでも続かないように、この気持ちをもったまま、同じような関係でい続けるのもまた続かないというのもわかってはいるけれど、たまにある雨の日がうれしいように、この瞬間を、今だけを、考えることを楽しもうかなって。