永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

梅雨

梅雨なんてなかったのです

僕が住む京都では6月7日に梅雨入りをしているというのに、雨どころかくもりも少ない今日この頃、みなさんいかがおすごしですか。

と思っていたら明日は雨がふるそうでなんとなく安心というか涼しくなるしよいことと思っていたけれど、雨の日にきぶんが晴れるものではないし、移動がめんどうくさくなるので複雑なしんきょうです。

 

ついこの間、10年くらいつかいつづけてきた茶碗がわれてしまい、たいへんへこんでいたし、今も思い出すとかなしい。かなしいかなしい、かなしい。

ものに強く感情移入をしてしまうせいかくなので、こういった突然の別れ(これも別れとおもってしまう)にはたえられることができない、事実。ものに意識はないし考えもないしそもそも生きてなんかないのに、まるでそういったものをもっているようにおもえてきて、へんに同情をかんじてしまいます。

 

その晩、茶碗が割れたといわれ、みにいってみると、みごとにまっぷたつになっていて、そのときはざんねんと思っただけだけれど、その日の夜、まっくらな部屋、ベッドでよこになって眠ろうとしたときにふとそのことを思い出してしまい、茶碗とともに歩んだ10年間を振り返るたび、きれいだったあのころと、割れたあとの惨めなすがたを比べ、とてつもないかなしみが湧いて、きづくと目に食塩水がにじんでいるのだった。

 

そうして目覚めたあさ、その茶碗を割れたかけらに気をつけながら、もういちど洗ってあげた。これがさいごなのだろうとおもうとまた涙がでそうにもなったけど、そういうわけにもいかないし、もうどうにもならないのがわかっていたし。それから乾かして新聞紙にくるんで、ありがとうといって、ふくろにつめて、すててもらった。かたちあるものはいつか壊れるというけれど、壊れてほしくないものもあるんですよとおもって空をみあげると、くものないそらが太陽でまぶしかった。