永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

霹靂

 さむなってきましたね、もう雪とか降りそうで、でも乾燥はめちゃめちゃ降ってるから、鼻のおくとかが、息をすうとつーんと痛くなりますね。そんなニベアを全身にぬりたくってる毎日をおくっておるけれども、やっぱり一週間がすぎるのがほんまにはやい、や、年とってきたなあみたいなことが言いたいわけやなくて、体感時間がほんまにはようなってきとります。これは30歳ももう一瞬やなあなんてひとりで考えたりもしてしまう。

 

 毎日仕事しに朝はよおきて電車のっていっとりますけれども、ま、べつにすきやから仕事してるんとちゃうし、もっとしたいこともあるし。でもしたいことっていうのも、世界一周していろんな価値観をもったひとと出会いたいとか、値段のたっかい車にのりたいとか、まわりの人がびっくりしてほれぼれするようなものではなくて、ただこうやって勝手にすぎてゆく時間を消費したりやとか、ビルとビルの間をすりぬけてゆく雲の数をかぞえたりやとか、四季をぜんしんで感じたりやとか、ものすごい茫漠な欲求しかないから、むりやり仕事してお金をかせぐ必要性もあらしませんのね。やからほんまに、なんでなん、いややなあと思いながら、暗いうちから駅にむかって歩き出さなあかん理由とか真剣に考えるときも、ほんまにある。

 

 じぶんを殺すと楽なんやろうなあって最近思うねんけど、はたしてじぶんを殺してしまうことで失ってしまうものが惜しすぎて、かといってじぶんを優先して生きるには不向きな時代やから、そんな狭間をゆらゆらゆれて曖昧模糊に生きるしか、できんのですわ。じぶんそのものがわがまますぎて、現実世界をいきてゆくには、そのじぶんを殺してしもたほうがほんまにええんちゃうん、って思う瞬間もあり。やけどな、そこで最近よんだ、村上春樹の「螢」って短編に、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」て言葉に感銘みたいな、晴天の霹靂みたいな衝撃をがーんとうけて、どないして生きたらええかという主題みたいなもんのひとつの解答がえられたようなきがして。つまりは、もうどないもせんでええということやねんな。殺すとか、生かすとか、そういったその刹那の価値観で決定をくだすことはナンセンスであって、わたしがこう、生きていること、そのなかに、じぶんの生と死があればええということでええんやな。納得って、納得するまでが必要なんやけどな。

 

 まあそうはいうても、現実世界で活動しているのはわたしなので、わたしが死ぬ、生きるは対極として存在してしまうもんやので、普遍的で万能な考えではないんやなというふうでもある。完璧な文章など存在しない、っていうたんも、たしか村上春樹やったよね。それは、そういうもんやね。