永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

無意味とか

 夕方がなくなってきて、夜の時間が長くなってきましたね。つい最近にこうこうと電気のついた職場から暗闇のなかに帰るとき、大阪でもかいだことのある、なにかが燃えたような、それでいてつるっとした無機質な冬のかおりをかいで、今年ももうそんな季節かあなんてひとりで思って空を見ると、雲がおおくて星が見れへんかった。お天気のほうが悪いね、ちかごろね。

 

 仕事をしながら、いかに手を抜くかを考えてはいるのやけれど、結局一生懸命やってしまうので、時間のすぎる速度というか、はやさが今までの比べものになれへんぐらいはようなってしまいます。勤めている千葉の山ん中は高層ビルとかごっついマンションとかがないので、天気がよいときは視界の半分以上がきれいなスカイブルーになってて、きもちいい。でも仕事をしているという束縛からは逃れられず、青空を自由に飛び回る名の知らぬ鳥たちの開放感との差というか対句というかその不可逆性を、身をもって体験してしまう。

 

 「なにかになりたい!」とか「あんなふうになりたい!」とかっていうのはその対象が想像の範囲内にあることなので、あるいみ現実味を帯びているというか、その過程はむつかしいものであっても、自分次第でなんとでもなるような気がしています。でも、例えば今の自分が見ているものがあったとして、そのまま目ん玉を動かさずにいると、視界のなかに検知できるものはそこにその物があると認識することは可能やけれども、視界外にあるものは、目で見て認識はできないんやけれど、確実になにかは存在しているはずなんや。こんな風に、その対象が、自分の知らない世界、または自分の意識の世界に存在しない状況というか状態というか、そういうのも絶対あるはずで、でもそれはこの今の自分には知りようのないことなのであって、その、「自分が想像もつかない状態にあるものになりたい!」というような願望は絶対に叶わない、叶えることができないんやと考えると、いややはり自分の五感とその他何かを感知する器官の限界を感じてしまいます。でもその状態にいる人は必ず存在しているのであって、でもそれは自分自身では絶対に感知できないものなんやもんね。だてに長生きしていませんね、人類。