永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

心から

 年末には関西にかえって飲んで飲んで飲んでを繰り返してしばらく消えない痣のような二日酔いになったと思ったら新年あけて初日の元旦の朝に流行りの時期をおもいっきりはずしたコロナウイルスに感染して、高熱と頭痛とともに激動の一週間をすごしてまた東京にかえってきた。もう誰もコロナウイルスについて話さず、もとからなかったかのような生活にまで社会が適用してきたのにもかかわらず、今更感染するっていうひねくれっぷりが、なんかじぶんらしいといえばじぶんらしいね。

 

 まあ時がすぎるのは、はやいもので。寒くなってきたとかなんやいうとったら、本日初雪を観測したんやった。紫色の絵の具に黒をおもいっきりまぜて、適当にぬきたくったようなぶあつい雲から、雨とまざって白いもふもふが空からしんしんとふりつづいとった。やっぱり関西でみる雪も関東でみる雪も、どっちもさむくてつめたくて、濡れて漆黒にそまったアスファルトに、無慈悲にすいこまれていっておった。こっちではどれぐらい雪をみることになるんか、楽しみやけどやっぱりさむいんはいややなあ。

 

 ひさしぶりにあった会社の同期とひるまから鍋とかくうてたときに、マッチングアプリつかったら一瞬で彼氏ができたってことをきいて、わっつという返事しかできひんかった。いまではアプリをつかった出会いから結婚とかするらしいし、そういう出会い方も受け入れられつつあるみたいやけれども、変なこだわりというんかなぞの抵抗感のせいで、すんなりとアプリをはじめるきになれんのや。と、いうのも、本屋で同じ本にてをのばし、手と手がふれあってしまって、わ!みたいな、そんな運命的な出会いが、まだどこかであるんやって期待をして、まだ何かあると心が信じ切っているからなんやとおもう。脳ではそんなドラマみたいなこと、絶対あれへんで、そんな受け身やと何も進展ないでって、99%はわかってはおるんやけれど、1%がそれを受け入れようとはせんのやし、心がそうおもっとったらじぶんの行動は変えられへんし、それは心から諦めを受け入れへんといかんのやな。手を動かそうと思ったら動かせるし、足を動かそうと思ったら動くんやけど、心っていうのは動かそうと思っても動かへんもんやから、自然と心が動くんをまたなあかんのやね。

 

 心からなにかをおもうってすごい上等でふかくてせつなくて、ほんとうにこれ以上になにかを信ずる根拠がないっていう最上位のことで、それが仕事にたいすることとか、生きるということにたいすることとか、特定の異性にたいすることとかにむくと、それにたいしては絶対的に優先できるのになっておもってまう。心からすきなもの、それにすべてを費やして、すべてを賭けて、すべてを預けたい、そんなものがじぶんにもあればいいのになっておもうけれど、でもそれも受け身っていうのはおいといて、いまは受け身でもええやんって、こころからおもっておるんや。