夢のはなし
とてもありふれたこと
自分が死ぬゆめというのはよくあることで、だいたいは死んでしまったその瞬間、ゆめから起きて、思い返すこともないのだけれど、先日みたゆめはとてもとてもとても特異なものであって。
中身というのは、自分は知らないたてものに居て、なにをするでもなくただぼうっとしていて、なんらかの出来事があって撃ってころされる。というところからしか覚えていないのだけれど。そこから場所が変わって、またもや自分は知らない草原にいて、うつぶせのまま寝ころがっている。
問題なのはこれからで、普通に起き上がろうとてのひらを地面につけて、ちからをいれるのだけれど、起き上がった感触はするのに、なぜか目の前に寝ころがった自分の後姿がみえるのであった。それが自分にとっては衝撃で、びっくりして。そうしてふらふらしているうちに、家族と出会って、高校のときの友達に出会うのだけれど、自分のすがたは見えないようで、なんと寂しげな気持ちになったことか。
病気のときを体験してからこそ、健康の価値というものがよくわかるというものだけれど、しんでしまったあとには、自分にはもうどうにもできなくて、ただ後悔だけがのこる。生きているときのよろこびというのは、生きているときに実感すべきであって、しにゆく間際に、ああ生きるっていいな、と思うのは、なんだか損をした気分になってしまうものではないのかな、なんて。
そんなゆめから目覚めたあとは、白い太陽のひかりがさしこむベッドのうえで悲しくなって、それとどうじに今という瞬間、めざめた瞬間、あらゆる瞬間のおくそこに、生きているということの価値を、そっておいていこうと決意。
初日
外部用に
昼ごろにいろいろはじめ方を調べ、すぐに開設したのはいいものの、
なんでか不思議と照れくさくなってこのまま消してしまおうかと思っていたり。
おそらく数年間も文字だけで近況をいいあったり、気持ちを伝えたりして、
顔も見たことがないにとても親近感を感じているひとたちがいるから、
まるで普段接しているひとたちに見せるのと同じような気恥ずかしさを
感じてしまった。のでしょう。
思ったより思ったことを文章にするのは、
普段140文字以内でしか短文をつくっていないじぶんには、
難しいことだと身にしみて実感している、日曜の夕暮れ←曇り。
はじめに
ブログ、というかただのメモ帳みたいな感じ
まえまえからやってみたかったのに、ずっとほったらかしにしたままでした。
でもまあこの度、無事はじめられたことにすごく達成感をかんじていたりもします。
つかいかた、なんていうのは全く決めてなくて、
ただ思ったことを気軽にかきためてゆく、後でみかえす。といったそんな感じ。
不定期更新なのですが、ゆっくり更新をつづけてゆくことを目標に、
このブログの名前を「永久運動」となづけてみたりもしました。