永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

日々

暑くなったり肌寒くなったり、温度の変化が激しい今日この頃、みなさんいかがおすごしですか。僕はといえば、馬鹿みたいに人が乗る朝の京阪電車にもうそろそろうんざりしてきています。とはいっても自分自身もその馬鹿の一人なのではあるけれども。

 

最近多くの人とふれあう時間が増えて、なんだかんだその場を乗り切ってるうち、やっとひとりでいる時間の大切さみたいなものがわかってきた気がする。誰かといるときの自分は本当の自分ではなくて、なぜならそれは、その一緒にいる誰かに自分自身を変化、というか適応させているためで、それやから疲れるのやと僕は考える。

 

夜中、バイトから帰ってきて風呂に入って、湯船につかりながらその日一日あったことをいろいろ考える。そうして自分自身をもう一度見返してやることが、日々を上手く生きることにつながるんやないやろうか。

4月

快速電車の窓から外を見ていた午後5時、天気はよく夕日がきれいやった。電車は高速で大阪を走りぬけるので、めまぐるしく風景は移り変わるのだけれど、夕日のだす光が、団地の壁や、ひろいグラウンドや、大きな公園を照らして、それらがぼんやりと薄いオレンジにそまって、どこか古くささ、昔っぽさを思いおこさせてきて、自然としんみりとしてしまった。

 

ひとは自分が体験したもののうち、失われたものにかんしては、現存するものより、より深くの想像、ついで情をかんじるものやと思う。それが存在していない現実を身をもって知りながら、それが存在していたという事実を受け入れたとき、そのギャップやらその差などを強くかんじてしまい、そしてそれは失われたものの年度が古ければ古いほど、その悲しみは大きいんやという結論をつけておくと、僕が今日感じた古くさい町並みに何故か深い感動さえ感じてしまうという事実にも説明がつく。

 

そう考えると僕が今日感じた感動なりしんみりさ、なりは結局ひとつの一例に過ぎない。じゃあそれは何の一例か、というと時間であって、僕は一秒一秒を過去にしていっているという事実を無視することはできないのや。それがどんな内容であれ、「若さ」を少しずつではあるが無くしていっている今。数十年後の自分がこの文を読んだとき、どうおもうのか。あるいはどうも思わないのかもしれない。

日常

もう3日は外にでていません。出る理由がないからです。すべてのことが家の中でかたづいてしまうしそもそも外に出てやることもなく、日光を浴びるには昼間、窓のちかくでカーテンを開ければ清潔な白い光がふりそそぐので、体内時計云々はそれで解決してしまう。問題なのは3日も外に出ていないことではなく、3日も外に出ていないのに特にそれがおかしいことだと思わないことです。

 

朝起きてベッドにねっころがって、本の続きを読んで朝ごはんを食べてリビングで本を読んで昼ごはんを食べてゲームして、夜ご飯を食べて本を読んで寝る。繰り返し。とくに体をうごかすこともなく、脳を使うこともないのになぜか腹は減る。体重計に乗る。別に体重が増えることなくからだに異変があることもないので、健康面ではなんらもんだいないようで。

 

「好きなことばかりしてるひとは暇だ」という話を聞きました。なるほどこれはほんとにそうで、嫌いなこと、したくないこともやるからこそ、日々が忙しいし、飯がうまいし、寝るときにようやったなあ自分と褒めることができるのです。ただ、したくないことばかりしていると、好きなことをしていないために夜、一日に満足できずに早く寝られないこともある。重要なのはその比率、バランスです。一番そのバランスがいいのが中学生、高校生の学生時代なのだったのだと終わってみて気づく。なんでもその価値は失ってから見えてくる。

 

今日は天気があまりよくなく、空に雲がかかっているときが多かった。部屋で本を読むとき、自分は部屋の電気を使わず、カーテンを開けて、外から差し込む光を受けて読むので夕方ほどからそうして読んでいると、だんだん日が暮れてきて、光量がぐんぐん減ってくる。色が綺麗な明るい黄色から、うすく灰色を含んだ水色へと変化した光が、読む本の白い紙を照らし、不気味な青白い雰囲気を漂わせる。薄暗い自室がなんだか特別な場所のような気がして、ふと窓の外をみると、沈みそうな夕日と、空に浮かぶ灰色の雲と、その灰色と夕日の淡い黄色と水色が混ざることなく微妙な色合いを醸しだす空の光景に、優雅さと、自分の無力さを同時に実感した午後5時。生きている。

距離

ガラガラの電車の座席に座りながら、窓の外の風景をなにげなくじっとながめて、広がる住宅地の真上に、それより大きく広がる空の綺麗さに、ひさびさに感動をおぼえたりした。電車は走りつづけ、眼下の家々はめまぐるしく移りかわるというのに、空はぜんぜん変わらずおなじ姿を網膜にうつす。あまりにも広大すぎて、ぎゃくに奥行きをなくしているその深い青さに、圧倒的な自然をふとおもいたったりしたのです。

 

じぶんがこうして空をなにげなくみて、ふとどうでもいいことを考えている間、空というのは微妙に動きつづけている。雲は静止しているようで毎秒どこかちがうし、さっきまでそこにあった空というのはもうそこにはないのだけれど、空は誰にでもみれるものであるから、その一瞬一瞬の空の形を、見知らぬ誰かがみているかも知れない。どこかで景色を共有しているかも知れないとおもうとなんだか世界は狭い、それに過去の人間も空を見上げ、いまのじぶんと同じことを考えたかもしれない、とおもうと、人類がつけてきた足跡は、意外と少ないのかもしれない。

 

空というのはあるようでない。ただの水蒸気の光の反射だからです。人間の目にみえる光の波長というのはとても限られていて、全体のほんの一部しか見れていない。でもじぶんはこの空が青く見れる生物でよかった、雲が白くみれる生物でよかった。すべての人類に、空が青く見えていなければ、こういった感動を覚えることもなかっただろうから。

初春

19年間というのは長いようで短い。ただ20回四季を経験しただけなのだから。でもそんな短くて語りつくせる程度の人生でも、最近はとくにいろいろおもいだしたりもしています。

外をあるくことが最近多かったので、ふだんつかわない駅でのにおいとか知らないひとの香水とか、電車が鉄橋をとおるときの音とかバスの扉の開閉音とか、そういった様々な外部の影響をうけて、過去に経験した記憶というものがしぜんと頭の中にわいてきて、高校時代のほんと最近のこととか小学校のときの淡い思い出なんかを追憶してしまいます。いまもなんだか遠いようで近い2年前の年末のこととかおもいだしたりして、横目で窓をながめ、部屋の温度差でガラスにまとわりつく水滴なんかをてにとったりして。

 

過去の記憶というのはもう起こってしまったことであるがゆえに無限のちからをもつ。過去のことがらを建前にじぶんをかざってみたりできるし過去のことがらでたのしんだりもできる、がやっていることはすなわち現在からの逃避。変わらない現在と変えようとおもえばいくらでも変えれる過去。それをひとたび記憶として認識してしまうと、じぶんが体験したものだと思うあまり改ざんしたことを忘れてしまい、じぶんをいくらでも美化できる。無限のちからというのはこういうことだ。昔のことをじぶんのステータスとして著しくじぶんを飾ることで、他人からは見栄えがよくみえるようになる。

でもひとたびすこし退いてみると、そういう過去のことがら(記憶としてもいい)でじぶんを飾ることはとてもむなしいことに気づき、今現在のじぶんと比較すると、いかにじぶんが価値の無い人間であるかわかるというもの。飾れば飾るほど今のじぶんの虚しさが顕著にあらわれる。そのことに気づくと過去をことばにすることが意味するのをじぶんで納得して、後悔したりもした。(これは過去のことがらでなく今の考え)

 

新年があけて一ヶ月経つけれど年末とかわらないじぶんに、とくに問題意識をもっておらん。一日のスケジュールもかわらん。かわったのは髪のながさぐらい。浪人生というのはこんなものかと、帰り道夜空をみあげると、真っ暗でなくどこか明るみをふくんでいる星空に、どこか悲しさを感じた。夜はない現代。2018。

 

雪と京都

このブログはなにかおもったことを後の自分に鮮やかにつたえるためのものであって、つまりは自分が何かものを考えない限りかきこむことはないのであるので、更新がないということは何も考えていないということになる。

というのも実際正解で、最近ほんとうになにかを思考するという機会がないのであります。(学問以外で)なにかものを考えると、どこか一点に視点が集中し、そのままその一転をみたままで、すうっと考えていたことが抜けてゆく。そのままなにを考えていたのかもう思い出せなくなってしまうというのを繰り返す年末。

 

今日は今年度ではじめて雪が降りました。積もるというのではないけれど久しぶりにみた雪というのはどこか儚げでいみじう趣がある。ゆっくり空から降ってきて、じめんにつくと同時に水になって溶ける。ただの水の状態変化なのに、どこかで生命を思い浮かばせて悲しい気持ちにさせる。

去年は忘れもしませんが1月13,14日と雪が降り、なんとか電車は動いてくれたのに感謝したのを思い出します。あれからほぼ一年が経とうとしていますがあのときあの瞬間、一年後に自分がなにをやってるかなんて想像もしなかった。いはんや今の自分もそうで、半年後どうなっているかなんてわかるはずもありますまい。何が起こるかわからないから人生という一年を、四季を繰り返せるんでしょうな。

 

前読んだ漢文に張来というひとの海棠にかんする文をよんだのだけれど、言ってることはつまり、未来になにが起こるかはわからない、ということです。時が経っても常に人間は未来がわからないことに言及している、とおもうと、どこか時を越えたなにかを感じたような気がして、不思議な気分になりました。

一寸先は闇といいますが闇じゃない場合もござる、一寸先が光かも知れぬ。もしくは豆球なのかも知れぬ。一寸先は豆球。それもおもしろい気がした。

 

 

こがらし

2週間ほどまえから決まって朝に腹が痛み出し、それが一日中続くという苦難のときをすごしてそろそろ慣れようかとしているときに花粉症かなにか知らない何かが鼻水、喉痛をひきおこし、外にでようとする意欲をかき消してしまった。つまりはひとりでなにかを考えることを避けるための手立てをうしなってしまったのだ。

 

なにかが燃えるにおいがする空気をすいながら、ひとりで家の中ですごした。どうやって死ねば一番楽に死ねるかというテーマだった。数時間かけて考えた末、結論は老衰だったのだけれど、よく考えたら僕ははじめから死ぬ気はなかったのだった。なにひとつ進歩しなかった。時間を無駄にしてしまったけれど、いい時間の消費にはなった。

 

ひとりでものを考えていると、結局じぶんひとりぶんの考え方しかできない、という言葉を本でよんで、確かにそのとうりである。じぶんひとりぶんの考え方というのは全く価値をもたない。というのも僕はじぶんひとりで生活しているわけではないからだ。

パートナーをつくるべきかも知れない、とびきり親しいパートナーをもつべきだと思う。じぶんの精神が安定するし、精神そのものも強くなれる。あらゆる場面に対応できるし、ふたりぶんの複雑な考え方がもてる。でもそのパートナーのつくりかたをもう忘れてしまったようにおもう。今居る自分状況がそうさせるのだ。今居る僕ひとりぶんの、何の価値ももたない考え方がそうさせるのだ。