永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

7月、はええよ、光

休暇をつれづれにすごして毎日だいだいきまったスケジュールでことがはこぶ生活をつづけて数日、無事にもっていた曜日感覚が息をするのをやめた。まいにち変わりゆくのはへんな天気だけで、じぶんはといえば、そこはかとなく宇治市京都市をいったりきたりするのみであったりして。

 

そうはいってるなか、ふとカレンダーをみると、もう7月も終盤戦にはいってしまっておった。時間というのは意識せずともながれてしまうもので、その証拠といってはなんですけれど、じぶんの気がつかぬ間にすこし太っていたりする。や、太っているといってもいわゆるメタボ体型でなく、もともと太らない体質ではあるので一見ではわからないのだけれど、腹をつまむと前にはなかったつかみ心地がするていどではあるのですけれどね。

夏バテというのがこなく、つねに腹をすかせておるのだが、いやはやいったいなぜでしょう、ずっと一日中つくえで学問かほかのことをしているのみで、運動はといえば駅での階段の上り下りしかないのではあるのでやはり単純な運動不足からくるものであるのだろうね、はやく来て、夏バテ、8月、冷涼。

 

 

 

初夏まっただなか、7月

ついこのまえまではだいたい夕方4時5時ごろになると、空がどんよりくもってきて、まあ雷なんかが空をかけめぐって、ときたま地面に落ちたりしていたりしたのだけれど、このごろはそんなことなかったように晴天。直射日光をさえぎる、そらの防御壁がないために、西側にめんする自室がどんどん高温新記録を更新してきとる。まえは32℃で部屋にもおれへん状況やったけれども、きょうなんかみたら35℃やって、そこにいるだけで汗がとまらなくなったりして。まあ、夏。

 

盆地はそらに雲があると、熱がこもって晴れているときより温度がたかくなると小学校のときならいませんでしたか、もしかしてうちだけやったんかな。でもどっちにしろじめじめする夜はやっぱりむさくるしく感じてしまうもの、よねえ。

 

先日、軽くでかけて外をあるいていたのだけれど、ちょっと大きめの横断歩道をわたろうとして、歩道で歩行者用信号が青に変わるのをまっていた。じぶんのほかにもまだひとが数人おって、みんなどこいくんやろうか、とかふとおもったりしていたら、背中からたたかれる感触。なんやとおもってふりむいてみると、車椅子に乗った真ッピンクの服着たおっさんがおったのだった。なにか喋っているので、つけていたイヤホンをはずして耳を近づけてみると、「そこ邪魔やから、のいて」といわれた。ええっ。ひと数人でがらがらやのに。ええっ。わざわざうしろとおるの、なんで。なんておもいながら、素直にどいてあげたけど、なんかなっとくできなかったが、数分したら忘れてた、夏はあったかいというより暑いんやけどな。

おおきなものの一部

京都駅の近くのビルの、でかい電光掲示板を、歩いているときにふと目にする、午後4時。おとといは33℃で、昨日は35℃でして、やっぱり地球温暖化のそれをじんわりかんじてしまったりして。すこし斜めにかたむいた太陽がはっする紫外線とやらをうでに生身に受け、いささかのひりひり感がどこからか湧いた。

しかし地球というのはとても巨大で、壮大で、広大で、とてつもなくでかいもので、地球の中心部なんていうのはものすごい高い温度をたもっていて、その熱エネルギーのためにわれわれがすむこの星がまわっているのだそうで。そのおおきなおおきな球体の表面温度が2,3℃あがる、なんていうのはまあ自然なことなのでは?なんていうことをどこかで聞いて、せやねえと納得することもしたのだけれど、それってじぶんたち、まあつまりは人間だけれども、それが起こした環境破壊の責任を、ほかのものになすりつけているだけなのでは?なんておもったりもした。

 

 

みえない世界、

いわゆる他人的別世界

毎日通うばしょに、あ、あのひとまたいる、あ、あのひとはじめて見た、というふうに思ってはみるけれど、もしかしたらむこうのひとも共通してあ、あのひといつもいるひとだ、とか、あのひとはじめてみるな、とそんなふうにおもうのだろうか。

わたし今日の服さらぴんなのよ、とか今日の服近所のひとからもらったお古ですねん、なんていうのはわからないけれど、みんな一緒に服を着てつくえで勉強してる傍ら、エアコンが音も無く冷風をふきだしている、午後2時。

 

ただそんなふうに思ってはみるけれど、今同じ空間に存在しているひとたちにも、それと同じ数の朝があったわけよ。よいか悪いかはさておきね、それなりのすごし方があったわけよ、それからそれと同じ数の夜もあるわけよ。それはみんなには見えないから、他人という存在、見えないから、他人的別世界。

訪れというの

夏である、季節はかわったのよ

先日今年ではじめて、人生でまだ二回目なのだけれど、部屋に忌み嫌われし害虫が出現し、久々に大声をだしてしまった。逃げてる隙に逃走を図られ、結局決着がついたのは0時前だった、切実にやめてほしい。けどこんなこと、伝わることはないので、おそらく人類と生物としては大先輩のかれらとは、いつまでも戦い続けることなのだろうね。

 

考えてみると、人類が勝手にここからここはわたしの陣地、ここからむこうまではあなたの陣地、というふうに、ありもしない境界をひいたのであって、それはおたがいににんしきしてこそ成り立つものであるから、人間いがいのせいぶつには当然受け入れられないものなのであることは誰にだってわかることなのであるのね。ですからその虫たちには自分がどこにいようと、ほんとに虫たちの勝手なのよねえ。

 

GKBRはもともとは、名前はわすれたけれど、今ほど忌み、嫌われてなかったという話を聞いたことがあります。かれらが出現するところは、食べ物がいっぱいあって、湿気がおおくて、いかにも住みやすそうな場所ですから、かれらが出現したのをみた当時のひとびとは、ああうちって裕福なんだな、というふうに考える時代もあったらしい。幸せなことである。

 

そんなかれらが嫌われはじめたのは、だんだん西洋文化が浸透し、純粋な日本ではなくなってきてからだそう。どんな変革があったのかは知らないけれど、わずか数十年でこんなにも日本の多くのひとがかれらを嫌いになってしまったそうで。そうかんがえるとかわいそうなことですわね。ほほほ。別にいいんですけどね。

やってきた、熱がよ

冷たさの価値があがる

昨日の昼から夜ねるまえまで、左腕のひじの下側、うまく説明はできんが、そんな部分、ゆびでぐっと押したらすこしだけぐびびっと内側にへこむようなあの部分がやたら痛みだし、無視できるような痛みではなかったので、なんだか心配になってきていた。これ、あかん病気とかなんちゃうん、とか腕切り落とさんならんかもなんて考えがどこからともなくわいてでた、昨夜午前0時。

 

もし腕を失うようなことがあったら、こうやってパソコンで文字をぱしぱしうちこむこともできなくなるし、文章はかけなくなるしで、日常生活なんてできたものではなくなるでしょうね。いまのこの生活がほとんどすべてこの片方の腕1本にささえられてるのかと思うと、いやはや片腕の重要性を気づかされたきがしてます。幸いなことに腕というものは2本あるのだけれど、正確にコントロールできるのは片方のみなので、にんげんといふものはもろい存在ですね、まったくね。

 

今朝は温度が暑く、梅雨も明らかな終わりをみせていて、まあよかったのだけれど、盆地にすむわれわれは、まだ夏の湿気になやまされそうであります、夏。この暑さもそうではあるけれど、ようやく聞きましたよ、セミの声。夏の到来。熱の到来でありましょう。そうでしょう。恒温動物というものはやっぱり誰しも暑くなったらつめたいものをもとめるでしょうし、寒くなったらあついものをもとめるでしょうから、むわんとかほる夏のにほひからは、やっぱりみんな冷たさをもとめるものでしょう。冷たさの価値があがる。

循環

降水と寂しさの関係とは

朝起きて台風、朝食をとって台風、電車に乗って台風、授業をうけて台風、エレベーターで台風、帰宅して台風、テレビで台風、寝る前にも台風。きっと今の最新のトレンドは台風なのでしょう、この時期にしか注目されない熱帯低気圧には、自身のつよいかぜで地面をむちゃくちゃにすることや、地上のものをほじくりかえすことなんて、なおさらそれを迷惑におもっているひとたちのことなんて、知りはしないのだから、しかたない。

 

夜ねるまえにふとおもう、孤独感とでもいうのでしょうか、ひとりでいるかんじ。形容しづらいけどそんな、感覚。寝ているにんげんというのはただ息をするだけのいわばいちばん無防備な状態といってもさしつかえはないでしょう、そんな状態をだれかと共有するというのは、信頼の具現化、でしょうね、いいね。すてきやんねえ。

まえに横で誰かが寝息をたてていたことなんて、あったかしら、いつかしらと思い返してみると、最新は高校生のときだった。当時仲のよかったひとたちと一晩、二晩をともにし、寝る前はたあいもないはなしに花をさかせた。わたしはみんなより一足はやくねてしまったけれど、それだけあなたたちのことを信頼していたのね、とあとになってそう気づく。みんな元気にしてるかな、どうかな。