永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

そんなこんなでもう4月。今は単に3月ってわけじゃなくて、今年の3月は去年のそれとはまるで違うのは、平成30年度が終わるってだけでなく、そもそも平成そのものが終わってしまうからなのだけれど、でも別にだからといって大きく何かが変わることは無く、学年が1学年あがったほうが自分に関して大きく何かが変わるんやろうなと考えていたりする、午後8時、外は夜の雨がしとしと降ってる。

 

春休みという大学の休業期間がもう終わり、そろそろ新しい出会いが近づいてこようとしているけれど、いわゆるネット社会の今では新しい出会いなんてのは日常茶飯事であることを改めて認識したりして、そっちがものすごく忙しくなっていたけれど、実際自分がやらなければならない仕事なんかもいろいろあったりして、体は特に疲れてないけれど、疲れに似た感覚をかんじたような気がする。

 

最近はずっと家の中でゲームして本読んで、たまに梅田に行ったり天王寺に行ったりの毎日で、なんだかんだ充実しているけれど、どこかでなにか物足りない感じがしなくもない、といった贅沢な悩みをかかえて生きてる。ほんとはやらなきゃいけないことがあるってわかっているけれど、一度こういう生活するのも悪くないんじゃないかって開き直ってはまた後悔の繰り返し、今日からはまた夜しっかり寝ようとは思うけど、そっちの自分がまた起きようとするのです。最近は空もちゃーんと見れてないし、ぼーっとくだらないことを考えることもできてないから、この瞬間だけ浪人時代の思想と偶像と妄想に生かされてたあのころに戻りたいなってふと思うのだけれど、時間というのは進むだけで止まることをせず、淡い過去とは常に疎遠になるしかないうえに新しい今を常に更新し続ける現実、やっぱり疲れに似た感覚を感じるでしょう。

 

永久運動

まずは、あけましておめでとう。と記しておく。これは今後読むであろう何年か後の自分に向けての挨拶でありながらこの記事をどこかで読んでいる人にむけたものであったり。

 

さて前回このブログを更新してからかなりの年月、というか期間があいてしまったのやけども、これには特に深い理由とか納得のゆくいいわけみたいなものはいっさいなくて、単純に生活のスタイル、とか暮らし方とかその他自分をとりまくあらゆる物事、関係が、がらっと変わってしまったせいでやることなすこと、そして自分もふくむすべてが変わってしまったせい。今年はよく喋るしよく笑うしよく食べるしよく人と会ったりして、去年とは何もかもがまるっきり違っていて、家の外でやることや家のなかでやることも然り。そんなさまざまなことが移り変わってしまったせいでその変化に自分でさえも正確に理解できなくて、ただ流されるままに順応してしまったせいで去年のじぶんが見事に進化してしまい、総じてまとめると考える機会が大幅に減った。

 

考えるにはひとりでいるのがぴったりで、でも人と触れ合う機会が多くなってやっぱり一緒にいたい人っていうのはできるわけで、ならば自然と考える機会って減ってしまうし、考えなくてもよくなってしまっている現代、馬鹿のままで楽しい毎日を送っていると、どうしてもこうしてもじっくり考える機会は減りますよ。減りますね。

 

受かりたかった大阪の国公立大学に合格して、新しい友達もふえて、お金も稼げるようになって、そして20歳にもなって。浪人時代と比べると明らかに経験とか体験とか、確実に成長できたはずなのに、さていざ立ち止まって振り返ると、特に自分に成長できた点が無かったのを痛感したりして。まあそんなことをふとゲームをしてる最中に思い出したりしたのでちょっと記事を書いてみたり。

 

去年がよかったのか悪かったのか、まあそれなりに甲乙つけがたいこともあるけれど、そんな過ぎ去った過去を評価することに意味を見出せないので、生きているこの一瞬一瞬を丁寧に生きていくように、冬の白いそらを見ながら思う。

 

日々

暑くなったり肌寒くなったり、温度の変化が激しい今日この頃、みなさんいかがおすごしですか。僕はといえば、馬鹿みたいに人が乗る朝の京阪電車にもうそろそろうんざりしてきています。とはいっても自分自身もその馬鹿の一人なのではあるけれども。

 

最近多くの人とふれあう時間が増えて、なんだかんだその場を乗り切ってるうち、やっとひとりでいる時間の大切さみたいなものがわかってきた気がする。誰かといるときの自分は本当の自分ではなくて、なぜならそれは、その一緒にいる誰かに自分自身を変化、というか適応させているためで、それやから疲れるのやと僕は考える。

 

夜中、バイトから帰ってきて風呂に入って、湯船につかりながらその日一日あったことをいろいろ考える。そうして自分自身をもう一度見返してやることが、日々を上手く生きることにつながるんやないやろうか。

4月

快速電車の窓から外を見ていた午後5時、天気はよく夕日がきれいやった。電車は高速で大阪を走りぬけるので、めまぐるしく風景は移り変わるのだけれど、夕日のだす光が、団地の壁や、ひろいグラウンドや、大きな公園を照らして、それらがぼんやりと薄いオレンジにそまって、どこか古くささ、昔っぽさを思いおこさせてきて、自然としんみりとしてしまった。

 

ひとは自分が体験したもののうち、失われたものにかんしては、現存するものより、より深くの想像、ついで情をかんじるものやと思う。それが存在していない現実を身をもって知りながら、それが存在していたという事実を受け入れたとき、そのギャップやらその差などを強くかんじてしまい、そしてそれは失われたものの年度が古ければ古いほど、その悲しみは大きいんやという結論をつけておくと、僕が今日感じた古くさい町並みに何故か深い感動さえ感じてしまうという事実にも説明がつく。

 

そう考えると僕が今日感じた感動なりしんみりさ、なりは結局ひとつの一例に過ぎない。じゃあそれは何の一例か、というと時間であって、僕は一秒一秒を過去にしていっているという事実を無視することはできないのや。それがどんな内容であれ、「若さ」を少しずつではあるが無くしていっている今。数十年後の自分がこの文を読んだとき、どうおもうのか。あるいはどうも思わないのかもしれない。

日常

もう3日は外にでていません。出る理由がないからです。すべてのことが家の中でかたづいてしまうしそもそも外に出てやることもなく、日光を浴びるには昼間、窓のちかくでカーテンを開ければ清潔な白い光がふりそそぐので、体内時計云々はそれで解決してしまう。問題なのは3日も外に出ていないことではなく、3日も外に出ていないのに特にそれがおかしいことだと思わないことです。

 

朝起きてベッドにねっころがって、本の続きを読んで朝ごはんを食べてリビングで本を読んで昼ごはんを食べてゲームして、夜ご飯を食べて本を読んで寝る。繰り返し。とくに体をうごかすこともなく、脳を使うこともないのになぜか腹は減る。体重計に乗る。別に体重が増えることなくからだに異変があることもないので、健康面ではなんらもんだいないようで。

 

「好きなことばかりしてるひとは暇だ」という話を聞きました。なるほどこれはほんとにそうで、嫌いなこと、したくないこともやるからこそ、日々が忙しいし、飯がうまいし、寝るときにようやったなあ自分と褒めることができるのです。ただ、したくないことばかりしていると、好きなことをしていないために夜、一日に満足できずに早く寝られないこともある。重要なのはその比率、バランスです。一番そのバランスがいいのが中学生、高校生の学生時代なのだったのだと終わってみて気づく。なんでもその価値は失ってから見えてくる。

 

今日は天気があまりよくなく、空に雲がかかっているときが多かった。部屋で本を読むとき、自分は部屋の電気を使わず、カーテンを開けて、外から差し込む光を受けて読むので夕方ほどからそうして読んでいると、だんだん日が暮れてきて、光量がぐんぐん減ってくる。色が綺麗な明るい黄色から、うすく灰色を含んだ水色へと変化した光が、読む本の白い紙を照らし、不気味な青白い雰囲気を漂わせる。薄暗い自室がなんだか特別な場所のような気がして、ふと窓の外をみると、沈みそうな夕日と、空に浮かぶ灰色の雲と、その灰色と夕日の淡い黄色と水色が混ざることなく微妙な色合いを醸しだす空の光景に、優雅さと、自分の無力さを同時に実感した午後5時。生きている。

距離

ガラガラの電車の座席に座りながら、窓の外の風景をなにげなくじっとながめて、広がる住宅地の真上に、それより大きく広がる空の綺麗さに、ひさびさに感動をおぼえたりした。電車は走りつづけ、眼下の家々はめまぐるしく移りかわるというのに、空はぜんぜん変わらずおなじ姿を網膜にうつす。あまりにも広大すぎて、ぎゃくに奥行きをなくしているその深い青さに、圧倒的な自然をふとおもいたったりしたのです。

 

じぶんがこうして空をなにげなくみて、ふとどうでもいいことを考えている間、空というのは微妙に動きつづけている。雲は静止しているようで毎秒どこかちがうし、さっきまでそこにあった空というのはもうそこにはないのだけれど、空は誰にでもみれるものであるから、その一瞬一瞬の空の形を、見知らぬ誰かがみているかも知れない。どこかで景色を共有しているかも知れないとおもうとなんだか世界は狭い、それに過去の人間も空を見上げ、いまのじぶんと同じことを考えたかもしれない、とおもうと、人類がつけてきた足跡は、意外と少ないのかもしれない。

 

空というのはあるようでない。ただの水蒸気の光の反射だからです。人間の目にみえる光の波長というのはとても限られていて、全体のほんの一部しか見れていない。でもじぶんはこの空が青く見れる生物でよかった、雲が白くみれる生物でよかった。すべての人類に、空が青く見えていなければ、こういった感動を覚えることもなかっただろうから。

初春

19年間というのは長いようで短い。ただ20回四季を経験しただけなのだから。でもそんな短くて語りつくせる程度の人生でも、最近はとくにいろいろおもいだしたりもしています。

外をあるくことが最近多かったので、ふだんつかわない駅でのにおいとか知らないひとの香水とか、電車が鉄橋をとおるときの音とかバスの扉の開閉音とか、そういった様々な外部の影響をうけて、過去に経験した記憶というものがしぜんと頭の中にわいてきて、高校時代のほんと最近のこととか小学校のときの淡い思い出なんかを追憶してしまいます。いまもなんだか遠いようで近い2年前の年末のこととかおもいだしたりして、横目で窓をながめ、部屋の温度差でガラスにまとわりつく水滴なんかをてにとったりして。

 

過去の記憶というのはもう起こってしまったことであるがゆえに無限のちからをもつ。過去のことがらを建前にじぶんをかざってみたりできるし過去のことがらでたのしんだりもできる、がやっていることはすなわち現在からの逃避。変わらない現在と変えようとおもえばいくらでも変えれる過去。それをひとたび記憶として認識してしまうと、じぶんが体験したものだと思うあまり改ざんしたことを忘れてしまい、じぶんをいくらでも美化できる。無限のちからというのはこういうことだ。昔のことをじぶんのステータスとして著しくじぶんを飾ることで、他人からは見栄えがよくみえるようになる。

でもひとたびすこし退いてみると、そういう過去のことがら(記憶としてもいい)でじぶんを飾ることはとてもむなしいことに気づき、今現在のじぶんと比較すると、いかにじぶんが価値の無い人間であるかわかるというもの。飾れば飾るほど今のじぶんの虚しさが顕著にあらわれる。そのことに気づくと過去をことばにすることが意味するのをじぶんで納得して、後悔したりもした。(これは過去のことがらでなく今の考え)

 

新年があけて一ヶ月経つけれど年末とかわらないじぶんに、とくに問題意識をもっておらん。一日のスケジュールもかわらん。かわったのは髪のながさぐらい。浪人生というのはこんなものかと、帰り道夜空をみあげると、真っ暗でなくどこか明るみをふくんでいる星空に、どこか悲しさを感じた。夜はない現代。2018。