永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

 冬まっさかり!という感じで夏には吹かないつよめの風とか、おでこが乾燥して保湿クリームを塗りたくるとか、まあ典型的な関東のカラカラの冬を体感しとりますけれども、ふと道を歩くと全然葉っぱが枯れてない、まみどりいろの木ぃを見てなんというか違和感。帰り道に街頭に照らされて、空にのびる真っ黒な稲妻のごとく上にツンツンのびている枯れ木のほうが、ああ冬やなあと思えるのに、なんで思いっきり春から夏してるんあの木ぃは。あと信号機。誰もがよく見た信号機って、丸くて分厚くて、やんわりと豆電球みたいにぼわっと光るものやと思うんやけれど、なんで最近交差点についてる信号機って、タブレットみたいに薄くてLEDで無機質に交通整理してるん。と思いながら電車乗ってたらウトウトして一駅寝過ごしてしもた、22時、引き返すんにも次の電車までの待ち時間、この時間なると長いんよなあ~。

 

 これらふたつの日常に潜む違和感的物体を例として挙げたけれど、心の底からじわじわと湧き上がってくるのは偽物ってかんじなんよね。本物やない。いや本物の木ぃやねんけど、本物の木ぃって春に蕾をたくわえ、夏には2ヵ月美容室にいってない髪の毛みたいに、生き生きした葉っぱをつけ、秋には色を暖色系に変化させたとおもったら道まき散らし、冬には骨だけになるもんやん。盛者必衰のことばにあるように、どんなものも枯れて死んでゆくもんやん。まあその木ぃも最後には枯れるんやろうけど。

 

 偏見ってかんじがするが、誰しもがみな誰しもに向けて偏見というものさしで測るわけやねんな。それに合わんかったら即座に偽物やと認識されてもうて、一度偽物やと思われると、今度は本物やと思われることが困難になる。ひとつ瑕疵があるだけで、なんか全部があかんみたい。盛者必衰の理論を使えば、それもなくなるんやろうか?

 

 偽物な感情で毎日出勤してるんやけど、もうぼちぼちそれにも飽きてきて、かといってまた別の感情がわくかといわれるとそうでもなくて、立ち位置が不安定やな。これが自分が死んでいくって感覚なんやろうか?一日に一回は、なんか道間違えたなあ、ほんまにこれであとの数十年いきてゆくんかなあ、いけるんかなあ、もっとええとこあるんちゃうんっていう堂々巡りな展開を繰り広げてるんやけど、盛者必衰理論でこれも死んで、落ち着いた鷹揚のある心になれへんかあとふと思う。そんな勝手になってくれたら、それはもうほんまいうことないわ。ほんまにな。

心から

 年末には関西にかえって飲んで飲んで飲んでを繰り返してしばらく消えない痣のような二日酔いになったと思ったら新年あけて初日の元旦の朝に流行りの時期をおもいっきりはずしたコロナウイルスに感染して、高熱と頭痛とともに激動の一週間をすごしてまた東京にかえってきた。もう誰もコロナウイルスについて話さず、もとからなかったかのような生活にまで社会が適用してきたのにもかかわらず、今更感染するっていうひねくれっぷりが、なんかじぶんらしいといえばじぶんらしいね。

 

 まあ時がすぎるのは、はやいもので。寒くなってきたとかなんやいうとったら、本日初雪を観測したんやった。紫色の絵の具に黒をおもいっきりまぜて、適当にぬきたくったようなぶあつい雲から、雨とまざって白いもふもふが空からしんしんとふりつづいとった。やっぱり関西でみる雪も関東でみる雪も、どっちもさむくてつめたくて、濡れて漆黒にそまったアスファルトに、無慈悲にすいこまれていっておった。こっちではどれぐらい雪をみることになるんか、楽しみやけどやっぱりさむいんはいややなあ。

 

 ひさしぶりにあった会社の同期とひるまから鍋とかくうてたときに、マッチングアプリつかったら一瞬で彼氏ができたってことをきいて、わっつという返事しかできひんかった。いまではアプリをつかった出会いから結婚とかするらしいし、そういう出会い方も受け入れられつつあるみたいやけれども、変なこだわりというんかなぞの抵抗感のせいで、すんなりとアプリをはじめるきになれんのや。と、いうのも、本屋で同じ本にてをのばし、手と手がふれあってしまって、わ!みたいな、そんな運命的な出会いが、まだどこかであるんやって期待をして、まだ何かあると心が信じ切っているからなんやとおもう。脳ではそんなドラマみたいなこと、絶対あれへんで、そんな受け身やと何も進展ないでって、99%はわかってはおるんやけれど、1%がそれを受け入れようとはせんのやし、心がそうおもっとったらじぶんの行動は変えられへんし、それは心から諦めを受け入れへんといかんのやな。手を動かそうと思ったら動かせるし、足を動かそうと思ったら動くんやけど、心っていうのは動かそうと思っても動かへんもんやから、自然と心が動くんをまたなあかんのやね。

 

 心からなにかをおもうってすごい上等でふかくてせつなくて、ほんとうにこれ以上になにかを信ずる根拠がないっていう最上位のことで、それが仕事にたいすることとか、生きるということにたいすることとか、特定の異性にたいすることとかにむくと、それにたいしては絶対的に優先できるのになっておもってまう。心からすきなもの、それにすべてを費やして、すべてを賭けて、すべてを預けたい、そんなものがじぶんにもあればいいのになっておもうけれど、でもそれも受け身っていうのはおいといて、いまは受け身でもええやんって、こころからおもっておるんや。

霹靂

 さむなってきましたね、もう雪とか降りそうで、でも乾燥はめちゃめちゃ降ってるから、鼻のおくとかが、息をすうとつーんと痛くなりますね。そんなニベアを全身にぬりたくってる毎日をおくっておるけれども、やっぱり一週間がすぎるのがほんまにはやい、や、年とってきたなあみたいなことが言いたいわけやなくて、体感時間がほんまにはようなってきとります。これは30歳ももう一瞬やなあなんてひとりで考えたりもしてしまう。

 

 毎日仕事しに朝はよおきて電車のっていっとりますけれども、ま、べつにすきやから仕事してるんとちゃうし、もっとしたいこともあるし。でもしたいことっていうのも、世界一周していろんな価値観をもったひとと出会いたいとか、値段のたっかい車にのりたいとか、まわりの人がびっくりしてほれぼれするようなものではなくて、ただこうやって勝手にすぎてゆく時間を消費したりやとか、ビルとビルの間をすりぬけてゆく雲の数をかぞえたりやとか、四季をぜんしんで感じたりやとか、ものすごい茫漠な欲求しかないから、むりやり仕事してお金をかせぐ必要性もあらしませんのね。やからほんまに、なんでなん、いややなあと思いながら、暗いうちから駅にむかって歩き出さなあかん理由とか真剣に考えるときも、ほんまにある。

 

 じぶんを殺すと楽なんやろうなあって最近思うねんけど、はたしてじぶんを殺してしまうことで失ってしまうものが惜しすぎて、かといってじぶんを優先して生きるには不向きな時代やから、そんな狭間をゆらゆらゆれて曖昧模糊に生きるしか、できんのですわ。じぶんそのものがわがまますぎて、現実世界をいきてゆくには、そのじぶんを殺してしもたほうがほんまにええんちゃうん、って思う瞬間もあり。やけどな、そこで最近よんだ、村上春樹の「螢」って短編に、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」て言葉に感銘みたいな、晴天の霹靂みたいな衝撃をがーんとうけて、どないして生きたらええかという主題みたいなもんのひとつの解答がえられたようなきがして。つまりは、もうどないもせんでええということやねんな。殺すとか、生かすとか、そういったその刹那の価値観で決定をくだすことはナンセンスであって、わたしがこう、生きていること、そのなかに、じぶんの生と死があればええということでええんやな。納得って、納得するまでが必要なんやけどな。

 

 まあそうはいうても、現実世界で活動しているのはわたしなので、わたしが死ぬ、生きるは対極として存在してしまうもんやので、普遍的で万能な考えではないんやなというふうでもある。完璧な文章など存在しない、っていうたんも、たしか村上春樹やったよね。それは、そういうもんやね。

無意味とか

 夕方がなくなってきて、夜の時間が長くなってきましたね。つい最近にこうこうと電気のついた職場から暗闇のなかに帰るとき、大阪でもかいだことのある、なにかが燃えたような、それでいてつるっとした無機質な冬のかおりをかいで、今年ももうそんな季節かあなんてひとりで思って空を見ると、雲がおおくて星が見れへんかった。お天気のほうが悪いね、ちかごろね。

 

 仕事をしながら、いかに手を抜くかを考えてはいるのやけれど、結局一生懸命やってしまうので、時間のすぎる速度というか、はやさが今までの比べものになれへんぐらいはようなってしまいます。勤めている千葉の山ん中は高層ビルとかごっついマンションとかがないので、天気がよいときは視界の半分以上がきれいなスカイブルーになってて、きもちいい。でも仕事をしているという束縛からは逃れられず、青空を自由に飛び回る名の知らぬ鳥たちの開放感との差というか対句というかその不可逆性を、身をもって体験してしまう。

 

 「なにかになりたい!」とか「あんなふうになりたい!」とかっていうのはその対象が想像の範囲内にあることなので、あるいみ現実味を帯びているというか、その過程はむつかしいものであっても、自分次第でなんとでもなるような気がしています。でも、例えば今の自分が見ているものがあったとして、そのまま目ん玉を動かさずにいると、視界のなかに検知できるものはそこにその物があると認識することは可能やけれども、視界外にあるものは、目で見て認識はできないんやけれど、確実になにかは存在しているはずなんや。こんな風に、その対象が、自分の知らない世界、または自分の意識の世界に存在しない状況というか状態というか、そういうのも絶対あるはずで、でもそれはこの今の自分には知りようのないことなのであって、その、「自分が想像もつかない状態にあるものになりたい!」というような願望は絶対に叶わない、叶えることができないんやと考えると、いややはり自分の五感とその他何かを感知する器官の限界を感じてしまいます。でもその状態にいる人は必ず存在しているのであって、でもそれは自分自身では絶対に感知できないものなんやもんね。だてに長生きしていませんね、人類。

責務てきな

 秋風というんか名も知れぬ風を感じながら夕方を歩いて見つけたのは、これもまた名も無き雑居ビルなんやけども、ありえないはずの既視感がわきあがってきて立ち止まってじっくり眺めてしまっている短い時間のあいだ、その秋風は髪を揺らす。はじめてみるはずのその建物から湧き上がるこの感覚ははたしてなんなのか、その正体は結局わからずに歩いて通り過ぎたのは昨日のことで、まあなんだかんだこの町この地域での生活に慣れはじめてきたのかなあと思ったりして、吸っていたセブンスターを地面でもみけす。

 

 メンター制度という、年齢のちかしい人が自分の担当についてくれて、新入社員が感じるであろう不安や悩みや疑問などをきいてくれたりして、慣れない業務を円滑に進めるというシステムがあるんやけども、その飲み会がちょうど一昨日ほどにあって、あまり気が進まないなか参加してきた。4人ほどの人数でイタリア食堂ならぬそういうテイストの居酒屋に行き、皿に対して少なすぎるおつまみのようなものをつつきながら、ワインぐらすに入れられた生ビールを飲んで、かんじとるこの絶妙に仲良くないこの空気。「どう?慣れた?」みたいな安直すぎる質問に、あ、はいみたいな返事がかえされ、声にならないへえ~、そして沈黙がやってくる。この空気!あかん!と変な正義感というのかなんなのか、関西人としての責務みたいなものを感じてしまって、しゃべりたおしてきてしもうて、笑いの旋風がまきおこり、そのおかげか、次の飲み会も予定されてしまうという始末になって、またこの役をせなあかんのかという、後悔というか変なめんどくさい感にとらわれてしまった。

 

 そもそもはべらべら喋るような性格ではないし、まあ人と会うのは好きやけど、それもなんか変な楽しみかたをしてると自分でも思うんやけれども、やっぱり場の雰囲気を読んでしまって、楽しいほうへと自らを犠牲にしてもっていってしまうのはあとから謎の疲労感をかんじてしまうのであって。素の自分をさらけだすのにはひとりでいるのが一番よくて、でも誰かと一緒にいたくて、というパラドックスをかかえながら、またセブンスターに火をつける25歳。

 

温度差

 まあなんというか笑顔と会話と勢いにあふれた怒涛の9月が一瞬で終わって、それらがきれいさっぱり失われた10月が始まって2週間がたとうとしているのやけれども、そんな雰囲気だけでなく、まわりの環境にもまだ慣れずにいる毎日を過ごしている、というか過ぎ去ってゆく。住む場所も、住んでいる人間も、日中一緒に顔をあわせている人達もすべてが完全に変化し、その変化に順応するどころかついてゆくこともままならず、きがついたら寒くなってパーカーとか着だしてしまいました。最近一気に寒くなりだしましたね。

 

 「異物感」という感覚、まあ人間ひとり生きていれば多少は経験するとは思うのだけれども、それは学校の新しいクラスであったり、新しいバイト先であったり、友達の友達とゆく飲み会でだったりで感じたりした思い出がふつふつとよみがえって、まあたいてい良い思い出ばかり思い出されて、それは、集まったひとたちがみんな同じような年齢のひとばかりだったからやないのかと考えまして。でも会社って、違うじゃないですか。同い年のひとだけでなく、むしろ年下の先輩なんかがいたり、生まれた場所も、話すことばの方言も違うお年を召された方なんかもいて、それはまあ簡単にこころの距離感はつめれませんわな。と納得するなどして。それだけではなく、やはり同じ業界の仕事をずっとやってきた方々、仕事にたいする熱意というか真剣さというか向き合い方が全然違っていて、役職についてて責任があるというのではあるかもしれないけれど、ほんとうに真向から仕事をしているさまをみて、今後こんなふうに一生懸命になれるのかな?無理なんとちゃうかな?と正直不安に思ってしまったり。

 

 異物感として思い出されるのは、大学生のころ、ほんのちいさなつながりしかなかった友人にサウナにさそわれたことがあって、しかもややハイグレードのものの(サウナのグレードとかわからないけれど)。でも私のサウナの経験は、スーパー銭湯にあるような簡単なタイプのものにはいって、あちちなんて言いながら2分くらいで出た記憶しかなかったので、よっしゃいっちょ高級なサウナに入ってみるか!なんて意気込んで、適当にタオルとかパンツとか着替えとか用意したのだけれど、なんとその友人が連れていってくれたのは山奥のロッジで、そこにはいわゆる「いつメン」たちがあつまるゴリゴリのサウナサークル所有地みたいなところだった。玄関には靴が所狭しと並んでいて、部屋のなかにはサウナハットやサウナスーツに身を包んだ大勢の若い男女があつまり、仲良さそうに話をし、ごはんをたべ、サウナに入り、楽しい時間をすごしているなか、なんの知識もサウナグッズももたない私は、そこに入りにくいというよりも、入らないほうがいいんやないかという感情すらわいてきてしまって、変な笑顔しかつくれなくなってしまっていた。結局外に用意されていたテントのようなサウナに入り、いいかおりがしてきもちよかったものの、やはり「異物感」はずっとべったりからだじゅうにこびりついたままで、汗をかいてもシャワーをあびて着替えても消えなかった。なにより驚いたのは、私をさそったその友人は私としか会話せず、ずっと一緒だったので、「まわりの人となじめなさすぎてしんどいわ」とちょっと本音を漏らすと「俺も初めてきたから正直しんどい」。いやお前も知らんやつらなんかい!と言うてしもうた。

 

 サウナにかんしても、仕事にかんしても、まわりとの温度差が距離感のどうこうに起因するのやとはおもうけど、その温度差というのは知識であったり真剣さだったり向き合い方だったりするとおもうし、一朝一夕ではその差は埋まらないし、それを埋めるには自分自身が埋めようとしなければ埋まらない。ですが私は自分から好きになったものしか好きになれない体質であるので、はたしてその温度差をちいさくすることができるのやろか?その温度差をかんじることに慣れてしまえば、何も感じなくなるのではないやろか?でもそれに慣れるよりも、温度差をちいさくするほうが簡単なんやないやろか?と堂々巡りのかんがえがうまれてしまっている。どうかこの温度差で風邪をひきませんように。最近寒くなっていますからね(2回目)。

 

日々など

 さあ社会人頑張るぞーという感じで4月を迎えたと思ったらもう9月になっていたりして、ということをちょっと涼しい風をからだにうけてふと思ったりしていたら、もう蝉の鳴き声をここしばらく聞いていないことを思い出す。ついに25歳になって最初の晩にお酒を少し飲んだだけでぐーすか横になって寝てしまって、こ、これがアラサーなのと、別に綺麗に星が見えるわけでもない大阪の空に問うたけど答えは当然帰ってこなかった。

 

 何が起こるのかわからないから人生はおもしろいんだって言葉があるけれど、その答えを知ってしまったら、何もおもしろくないんじゃない?と大阪の夏の空に聞いたら、全員がそうなのかな?って感じになってふふーんとなったりした。「何が起こるわからない」状態で、次に何が起こるんだろう?あれかなこれかなって考えて、全然違うことが起きて、やっぱ人生はおもしろい!って考えに至るその過程がないとこの言葉って出てこない。

 

 やんわりと風を感じながら夕日に照らされたオレンジの街並みを歩くと、ふと視界がクリアなことに気がついて、眼鏡を新調したことを改めて認識する。ここにこんな言葉書いてたんだ、とか、ここの窓ガラス割れてたんだ、とか今まで眼鏡が無いと見えなかったことが見えて、新たな発見があったのだけれど、なにか自分に変化があると世界の見え方も変化して、新しい何かに気がつくことができて、それがまた新しい変化に繋がって、また何かに気がつくことができて、という繰り返しをうむ。それが、もし知りたくないことを知ってしまったとしても、それもまた新しい変化をうむのであって、次にくるその新しい何かが、今度はよいものでありますように。そしてそれから生まれた変化が、またよりよい新しい何かをうみますように。