永久運動

日記のような、随筆のような、ただ思ったことをつらつらと書きつらねるところです

中間地点

 なんだかんだ時間を過ごして24歳になって、「来年にはもうアラサーだね」みたいな会話をしながらバイトして年を越して大寒波がきて2月の中旬になったのだけれど、結局特に身体的な変化はなくて、顔の炎症はいまだによくならないし、肩や足が痛いし、朝は自然と7時30分には起きれるようになった。8月の中旬ぐらいに施工管理職への就職が決まり、パチンコ店員としてアルバイトが始まって、絶妙な距離感で親しい人ができて、さあ4月から社会人として働くぞ、というフリーターでも社会人でもない中間地点にいるわけで。

 

 「つむじ、かわいいですね」みたいなことを言われて、えっそうかな、つむじにかわいいとかかっこいいとかあるのかな、なんてことを返したら、「100点満点のつむじしてますよ」って笑って言われた。そんなことを今まで考えたことがないし、自覚してもいないのだけれど、誉め言葉として受け取って少しうれしくなった。この世の中にはいろんな人がいて、生活様式もそれにあわせてたくさんあって、生活様式にあった収入や職業もたくさんあるのだ。自分は周りより忙しく、高収入になる予定なのだけれど、それに対して少し待ち遠しい気分なのか、優越感なのか、そうなりたいという願望があるのか、忙しさに対する恐怖感があるのかよくわからないぐるぐるとした感情を持ちながら時給1025円のバイトをしている。

 

 大学の友人と飲んだ時、結婚の話をして、「結婚ってすごく脆くて儚い関係だよね、お互いがお互いのことを信頼しているから成り立つのであって、どちらかが崩れてしまうと途端にその関係はなりたたなくなるよね」みたいなことを言ったら、「そのために法律で縛る必要があるんだろうな」という答えのようなものがかえってきて、ああなるほどなと思った。何も属せず、すべてからの中間地点にいる自分にとって、結婚という出来事には他と同じく遠いもので、なんの意識もないけれど、いずれはこれについて考える時がきて、そのとき、今は考えられないような、どのようなことについて悩んだり考えたり話し合ったりするのだろうか?そのことについて考えている自分は何歳で、どこに住んでいて、何時何分で、何を着ていて、何をして生きているのかは全然予想もできないし、そもそもそのことについて考えたりしないのかもしれないし、そのことについて考える機会すら与えられないのかもしれないけれど、いざそのことを考えるとき、今の『何も知らない自分』を見たらどう思うのだろう?あのころはよかったな、何も知らないままでいて、とかなのだろうか?

 

 十分に大人であるはずの自分は、いつまでたっても子供で、未だに免許ももってないし、それについての悪い習慣も改善しようとすらしないけど、別に今はそれでいいのかもしれない。したいときにすればいい、直したいときに直せばいい、タバコも吸いたいときに吸えばいいし、辞めたいときに辞めればいい、寝たいときに寝ればいいし、起きたいときに起きればいい。それが動物の性だし、人間だって動物なんだし。でもそうは言ってられない時もあって、そのときは頑張るけどね。

 

無色

 なんか最近は時間がたくさんあるので、なにを考えるということはないけれど、やっぱり人間ひとり生きているのでなにかしら考えることは多い。こうして自分の考えたことを文章にして、後々の自分にまとめておくということがいささか困難なことに思える。前回の記事が1年まえで、それ以来に感じたこと、考えたことを書いて残しておきたいが、目まぐるしく動く周りの環境、人付き合い、それをとりまく様々なことが過ぎてしまえば一瞬なので、文字にするということだけでなく、思い出すということさえ難しい。

 

 2022年は令和4年、大学も3年生から4年生になり、実家暮らしから大阪で一人暮らしをしていたり。身の回りだけでなく、自分自身の考え方も大幅に変化した数年間。特に何も感じていなかった実家の飯が、ふと食べたくもなるようになった。1日のすべてをひとりで過ごし、友達と会う機会もさほど多くはなくなった、つまるところ、みんな大人になったというわけで。目標が大学卒業から就職になり、道行く人たちがマスクをつけるようになった。周りの環境は変化しているが、自分自身はどう変化したのやろう?って聞いても答えてくれる人はいるはずもなく、つまりはそんなこと気にする必要はないんやろうという結論に落ち着いた。思い返せば、座右の銘が「今が楽しければ、それでいい」である僕にとって、そんなあらゆる思考はいたってナンセンスなものであったなあ、と考えるのももう17時半。

 

 大学4年生のころ、というかほんの数か月前やけれども、なんていうのはもう思い出したくもないし、再び考えたくもない、そんな1年があったとうことだけ記録しておく。でもただ居心地が悪くて、嫌で嫌で、逃げ出したくて、できなくて、それでも嫌で、解決策を考えて、ダメで、でも嫌で、でもなんだ今を生きれているという、現実。複数の意味で、たくさんのことを学べた1年であったと考えると、まったく大切な時間を無駄にしたというわけではなかったのかな、と今になって考える。

 

 結局のところ、1番大切なのは自分自身であるということなんや。今後自分が結婚するかどうかもわからないが、したとしても、しなかったとしても、文字通り常に一緒にいるのは自分自身なんや。どんなことがあっても、どんな目にあっても、なにをするにしても、なにもしないにしても、常に一緒にいるのは自分自身なわけで。自分自身に嫌なことをすると、僕も嫌な気分になるし、自分自身が楽しいと、やっぱり僕も楽しくなる。どんなに人から嫌われようと、どんなに人から好かれようと、死ぬ間際、いちばん近くにいるのはやっぱり自分自身。たとえ、誰かを嫌いになることはあっても、自分自身を嫌いになることはしたくないし、たとえ、誰かを責めることはあっても、自分自身を責めることだけはしたくない。つまりはそういうことなんや。今後の僕も、自分自身とうまくやっていけてることを願うばかりである。

 

 でもだからといって、僕の周りにいる人たちはどうでもいいのかと言われると、そんなことは決してない。好きなものは大好きだし、嫌いなものは大嫌いだし、そういうのはほとんど変わっていないし、今後も変わることはない。僕は好きなものだけを好いていたいから、周りの人たち、だけでなく、気に入った身の回りすべてを好いていこうとも思う。今後の自分もそれだけは不変であってほしい、だって自分が大きくなったとき、嫌いなものばかりに囲まれているのは嫌やしね。

 

 長々と現在を綴ったが、たばこが吸いたくなったのでここいらでやめにする。もう大きくなったので、自分が好きそうなポエムはかけないが、たまには子供心に戻ってもいいのかな、なんて思ったり。これからも何か考えることがあれば、こうして記していきたい。何年前か忘れたが、ここにつけた名前、永久運動、その名の通りに、ゆっくりではあるが、たまにはこうして考えを記録していこうと思うばかりである。

 

追伸 あの人を想っていた時も、今でも好きな曲を記しておく。また忘れたころにきいて、なにか別のことを感じていたら、それはここに記した意味があったというものや。

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心機一転

もう二月になるけどそんな実感は特になくて、一月の思い出っつうかなにしたかなんて特になくて、やっぱりないんなら気持ち的には一月じゃないのって感じだけどそんなことはない。二月の後半なのだ。最近自分がなにをしていたのか記憶があんまりないまま、そしてなにも考えずに生きていたんだと外の寒さを顔に感じながら思う。まだ冬だ。ほんとに二月の後半なのか。

 

地面は思ったより寝やすくて、あったかい。冬なのに。地面に伏せていると立ったときより体ぜんたいで受ける冷たい風の量が減る気がするのだけれど、これはどうなんでしょうね。そのとき木の葉がすべて散り、シルエットになった黒い枝が黒い空へと伸びていた。この時期の朝六時は朝っぽくない暗さで僕自身を大きく覆っていて、このあいだ買った革靴は見えないところで傷だらけになっていて、無数についてしまった革靴の傷はクリームや墨で簡単に消えるのだけれど、なんというか自分と違いすぎていろいろ変化とか焦燥とか悲愴とか、なぜか敗北感とかいろいろぎゅるるると自分を置いてものすごいスピードでこみあげてきて、黒く大きすぎる京都の空に向けて目から食塩水が染み出していて、時計は六時半を指していた。

 

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この歌を記しておく。どことなくZARDを思わせて一人泣いた鴨川の河川敷の冷たい風を受けて感じた涙のにおいを思い出す。過去をみてもどこにもいけないが、そこから得られるなにかがあるし、人は何からでも学べるってどこかでみたがどこで見たかは忘れてしまった。変化は進化だ。それが良い変化か悪い変化かは変化したあと結果的にわかることであって、変化する前に良いか悪いかを判断するのはナンセンスであるのだろう。

 

 

 

毎日

毎日なんというかどうでもいい感じですごしてバイトしてバイトしてバイトして帰宅してなんでもなくスマホ見てなんか1時間経ってて冷たいあたたかい風呂にはいって空気を見つめて毛布にくるまって天井を眺めていたらもう朝の5時とかで、窓を開けたら湿った朝が部屋に流れ出して新しい1日の到来を微妙に体感して。昼夜なんて基準は自分で決めるものではなく自分を取り巻くあらゆる環境が決めるものであるので、実際自分にとってはそんな毎日の過ごし方は何ら問題ないわけで、でも実際内面的にはそうでもないわけだからこうやって文字にしているのであって。そういうわけでなぜか勝手に新年が始まる。知ったことか。ただバイトが休みなだけで自分は助かるからいいけれど、それでも人肌恋しいというのはやはりあるのでそのためにあーーーいう人が僕にはいるのであって。しかしことは簡単にゆかないからこうして文字にしているのだ。

 

あれから変わったことは新しいバイトを始めただけで特になにも変わってはおらず、いまだにボケっとして時間を消費してる。やっぱり電車の窓からみる高速で流れる景色は好きだし夕日とか夜景は好きだしなんか思いすぎて泣きそうになることもある。人ってそんな簡単に変わることはないのですね。本質の自分を新しい環境でごまかしてぼやけさせるってのはあるらしいけれど。

 

寒くなってきて最近指が乾燥してところどころ指紋が消えたし血は出てないけど変に細かい傷できてるし親指にいたっては硬化して触覚がないっていう不思議な感覚がしている。去年はこんな感じの指だったかなって思いだしたけど去年の自分が何を考えてすごしていたのかは全く覚えてないし、覚えてることといえば好きな女と飯にいっていろいろ喋ったことだが話した内容は覚えてないので、どうせ下らない会話でもしてたんだろうなと諦めかけてその時の自分がものすごく未熟なように思えた。たった1年前なのに。

 

なんかいつもぼーっとしてて眠そうでなんか考えてるよね~~~って言われて嘘????ってなったのはほんの1週間ぐらい前の出来事で、確かにそんなにぼーっとしてるかなってバイト中の自分を思い返していたらほらそんな感じってほっぺたつんつんされたのも1週間前。世の中1人称視点ではわからないことだらけだし客観視っていっても事実上1人称視点であることに変わりはないのだ。要するに1人でいることの有効性って思っているほど高くはないということであるのだが1人でものを考えるのは意外に楽しいことであるので困るということなのだ。

 

 

雨の日

4月は後半の雨の日の今日。駅前のベンチに座りながら、雨がやむのを待っていて、しとしと降る雨粒がスニーカーのつま先を濡らす。午後3時の京都は最近の連日の暑さを忘れさせるように涼しい。空から絶え間なく降り続ける白い細かな線をぼんやり見つめながら、ずっとこんな日が続けばよいのにな~と思ったりした。

 

先日の英語の授業で、英語など多くの外国語は積極的言語とよばれるように、相手になにか聞かれたときも言うときも、1から10まですべてを伝えないといけなくて、もし相手がその話についてなにかわからないことがあったら、それは自分が伝えきれてなかったせいなのだ、と考える言語らしい。一方日本語はというと、受動的言語とよばれるように、1伝えると、聞き手側がその1から10までを自分で察して判断しなければならない言語で、聞き手になにかわからないことがあったなら、それは聞き手がちゃんと察してやれていなかった、と考える言語なのだそう。確かにこれは古文で顕著で、主語が抜けまくってるし、文を読み解くのに必要な、最小限の情報しか書かれていないことからもよくわかる。

 

さて、じゃあ「好き」ってなんやろう、って考えたとき、定義的な意味を考えるならば、あるものごとに好意をしめすこと、なんかになるのだと思うけれど、日本語を使う我々に、「好き」を伝えたとき、相手はいったいどこまで意味を汲みとるんやろうか??単純な「好き」ということばが、付き合うとか恋人になるだとか、そのようなもっと先のことまで想定してしまうんやないやろうか。ただ好きなだけ、ただずっと想ってるだけ、ただ自分にとって大切な人であるだけ、という小さくて大きな、やわらかくて壊れやすい気持ちをあらわすのに、「好き」って伝えるのではあまりにも意味を持ちすぎて、限定しすぎて、強すぎて、そして曖昧すぎる。

 

この「好き」って気持ちをどうあらわすかという適切な表現をまだ知らないから、ゆっくりじっくりのんびりぼちぼち考えている。でも連日の暑さを忘れさせるような涼しい日っていうのがいつまでも続かないように、この気持ちをもったまま、同じような関係でい続けるのもまた続かないというのもわかってはいるけれど、たまにある雨の日がうれしいように、この瞬間を、今だけを、考えることを楽しもうかなって。

 

 

そんなこんなでもう4月。今は単に3月ってわけじゃなくて、今年の3月は去年のそれとはまるで違うのは、平成30年度が終わるってだけでなく、そもそも平成そのものが終わってしまうからなのだけれど、でも別にだからといって大きく何かが変わることは無く、学年が1学年あがったほうが自分に関して大きく何かが変わるんやろうなと考えていたりする、午後8時、外は夜の雨がしとしと降ってる。

 

春休みという大学の休業期間がもう終わり、そろそろ新しい出会いが近づいてこようとしているけれど、いわゆるネット社会の今では新しい出会いなんてのは日常茶飯事であることを改めて認識したりして、そっちがものすごく忙しくなっていたけれど、実際自分がやらなければならない仕事なんかもいろいろあったりして、体は特に疲れてないけれど、疲れに似た感覚をかんじたような気がする。

 

最近はずっと家の中でゲームして本読んで、たまに梅田に行ったり天王寺に行ったりの毎日で、なんだかんだ充実しているけれど、どこかでなにか物足りない感じがしなくもない、といった贅沢な悩みをかかえて生きてる。ほんとはやらなきゃいけないことがあるってわかっているけれど、一度こういう生活するのも悪くないんじゃないかって開き直ってはまた後悔の繰り返し、今日からはまた夜しっかり寝ようとは思うけど、そっちの自分がまた起きようとするのです。最近は空もちゃーんと見れてないし、ぼーっとくだらないことを考えることもできてないから、この瞬間だけ浪人時代の思想と偶像と妄想に生かされてたあのころに戻りたいなってふと思うのだけれど、時間というのは進むだけで止まることをせず、淡い過去とは常に疎遠になるしかないうえに新しい今を常に更新し続ける現実、やっぱり疲れに似た感覚を感じるでしょう。

 

永久運動

まずは、あけましておめでとう。と記しておく。これは今後読むであろう何年か後の自分に向けての挨拶でありながらこの記事をどこかで読んでいる人にむけたものであったり。

 

さて前回このブログを更新してからかなりの年月、というか期間があいてしまったのやけども、これには特に深い理由とか納得のゆくいいわけみたいなものはいっさいなくて、単純に生活のスタイル、とか暮らし方とかその他自分をとりまくあらゆる物事、関係が、がらっと変わってしまったせいでやることなすこと、そして自分もふくむすべてが変わってしまったせい。今年はよく喋るしよく笑うしよく食べるしよく人と会ったりして、去年とは何もかもがまるっきり違っていて、家の外でやることや家のなかでやることも然り。そんなさまざまなことが移り変わってしまったせいでその変化に自分でさえも正確に理解できなくて、ただ流されるままに順応してしまったせいで去年のじぶんが見事に進化してしまい、総じてまとめると考える機会が大幅に減った。

 

考えるにはひとりでいるのがぴったりで、でも人と触れ合う機会が多くなってやっぱり一緒にいたい人っていうのはできるわけで、ならば自然と考える機会って減ってしまうし、考えなくてもよくなってしまっている現代、馬鹿のままで楽しい毎日を送っていると、どうしてもこうしてもじっくり考える機会は減りますよ。減りますね。

 

受かりたかった大阪の国公立大学に合格して、新しい友達もふえて、お金も稼げるようになって、そして20歳にもなって。浪人時代と比べると明らかに経験とか体験とか、確実に成長できたはずなのに、さていざ立ち止まって振り返ると、特に自分に成長できた点が無かったのを痛感したりして。まあそんなことをふとゲームをしてる最中に思い出したりしたのでちょっと記事を書いてみたり。

 

去年がよかったのか悪かったのか、まあそれなりに甲乙つけがたいこともあるけれど、そんな過ぎ去った過去を評価することに意味を見出せないので、生きているこの一瞬一瞬を丁寧に生きていくように、冬の白いそらを見ながら思う。